トップページ | 2011年12月 »

2011年11月

2011年11月30日 (水)

日本で本当に自信のある精神科医はどのくらいいるのか?

今まで、何人かの精神科医、神経科医、心療内科医にかかった敬虔があるのですが、「ふざけんじゃねえ! そんなド素人みたいな知識で医者の看板を出すな!」(こんな医者とか)とキレそうになるのを何度も踏ん張りました。

いや、本当に、惚れ惚れするような腕の医者にも会ったので、全員ではないです。

体の医者とは違い、心の医者は腕のバラツキがかなり違うようです。よく、こういうのは相性の問題だからどちらも悪いわけではないない、という人がいますし、確かに相性問題はあると思うのですが、明らかに単に腕がない(心の医者が医療ミスしても、まず証拠は残らないので表ざたにならない)場合があると思います。

この場合、心の病も当然悪化します。個人的には、医者にかかった後にそれまでなかった症状が追加され「これは医原病ではないか?」と言いたくなるところを、証拠がないので断言できずに抑えることがよくあります。2週間に1度医者に行くと、通院後、必ず酷いうつ状態に見舞われ、何とか元気を取り戻すのに2週間かかる・・・。

詳しい現状を書く余裕はないので、あまりに抽象的な文になってしまいました。すみません。

ということで、たとえ話(とはいっても、私としては大真面目な話ですが): 外科医の場合、医者自身が外科手術を必要とする病気になった場合、腕の良い医者だったら「俺が自分自身を手術するのが一番安心なんだが、そうもできない。仕方ない。知り合いの医師~ならまあ信用できるから、彼に手術を頼もう」ということになるかと思います。

それと同じことを精神科医で考えると。入院施設を持つ病院の院長先生で、「もし俺がストレスで倒れたら、自分の病院に入院しよう! それが一番安全で確実に回復できる!」と言い切れる程、自分に自信のあるお医者さんが日本に何人いるのだろうか?と考えてしまいます。

2011年11月27日 (日)

非物理的な「パワー」と、「信仰」

パワーストーンは昔からよく聞く。別に、このパワーを否定するつもりはない。そんなパワーなどない、と主張できる根拠などまったく持ち合わせていないからだ。私も、水晶などは好きだし。(「あると信じているのか?」と訊かれれば、信じてない方なのだが、その私が間違っているのかもしれない、ということだ。)

ところで、世の中には、物理的な「パワー」ではないが、超自然的な不思議なエネルギーなどの仮定をしなくとも、確かにパワーがあるものはある。

例えば、お金だ。

もし、何らかの理由で臨時収入があって、1千万円の札束が自分の部屋にあったとする。

普通は、それだけで安心感や幸福感が増すだろう(お金で解決できない深刻な苦しみを負っている人や、その程度の金は小遣いにもならない大金持ち、金があるとかえって「無くなったらどうしよう」と不安になる人、などの例外は除く)。心は平静になり、夜もぐっすり眠れるだろう。心が平静になり、良く眠れたならば、体調もよくなるだろう。

ところが、朝起きたら、何かの理由でその札束が無くなったとする。そうなると、一気に落ち込んで体調も悪くなるかもしれない。

しかし、お金を使っていないのに、少なくとも一晩は心が豊かになり体調も良くなったわけだから、お金というものは「有るだけで、功徳があった」ことに変わりはない。

もちろん、札束から超自然的なエネルギーのようなものが放射されていて、それが心身ともに健康にしたわけではない。お金の「パワー」をエネルギー源とするエンジンを作れるわけではない: 要するに、札束を燃料にして、「お金のパワー」を取り出して動くエンジンで、使用済みの燃料は「物理的に入力した札束とまったく変わらない」札束になるもの・・・物理的には同じ札束だが使用済みの札束はお金のパワーを失って、ただの紙くずになっている、という理論だ。

もし仮に、お金という概念が存在しない国というものがあって、その国の人が日本に来たら、「この国の人間は、お札という名前の呪文の付いたお札やコインという石を持ち歩いていて、それには何かの力が宿っている、という宗教を信じている」と思うのではないか?

重ねて言うが、こういう議論をしたからといって、パワーストーンのパワーはそういう種類の力だ、と主張しているわけではない(半分言っているようなものだが)。もしかしたら、水晶などは自然の力であの美しい結晶になったものだから、そのようなものを身近に持ち歩くことで人間というものは自然治癒力その他が活性化するのかもしれないし、本当に超自然的なパワーというのがあるのかもしれない(あるとは言わないが)。そこは私には分からない。

-----

ところで、神を信じている、という人は沢山いるが、「信じる」という言葉は少し軽すぎるのではないだろうか?

またお金にたとえるが、仮に1万円札を持ってデパートなどに行くとする。このとき、「この1万円札は、日銀が発行して、法律によってこの価格以内の商品と交換できることは保障されているはず。俺は、この1万円札でデパートで物が買えるということを『信じる』」と言うだろうか? 普通は、お金で物が買えることは『知っている』ものであって、「何をそんな当たり前のことを、わざわざ『信じる』なんて言うの?おかしいんじゃない?」ということになるだろう。(ちなみに、この「信仰」は絶対の真理ではない。お金は確かに強力であるが万能ではない。お金で買えないものもあるし、例えば円の価値が暴落したら、この信仰は崩れて社会全体がパニックになるだろう。)

イエス・キリストは「人は神と富との両方に仕えることはできない」と言った。

とすると、「神を信じる」というのはまだ信仰が足りないのではないか?

お金との対比で考えれば、「神の庇護を『知っている』」とか「『神が見守って助けてくれると信じる』なんて、何故わざわざそんな当たり前のことをわざわざ言うの? おかしいんじゃない?」と言えるようになって、はじめてやっと、お金と同程度に神を信仰していることになるのではないだろうか?

信仰というからには、最低限でも「知っている」というレベルまでいくべきではないだろうか?

(ちなみに、私は特定の宗教を信仰しているわけではありません。)

2011年11月26日 (土)

世界で最も論理的で害の小さい疑似科学

世の中には多くの疑似科学がある。疑似科学の被害者も多い。

疑似科学に対する考察の本の古典として、マーティン・ガードナー著「奇妙な論理」(市場泰男訳 早川書房 ハヤカワ ノンフクション文庫(I,IIの分冊となっている))がある。

この中に、個人的に少々感動した思想がある。19世紀の動物学者フィリップ・ゴスの「オムファロス」という著作で発表したそうだ(I、pp.112-116)。彼は、学者として、地質学などの証拠は、確かに地球には非常に長い地質学的歴史があって、動植物がアダムの時代よりもはるかに昔から繁栄してきたことを示していることは否定できないとする。しかし、彼は敬虔なキリスト教徒であったので、聖書の創世記で示されたように、世界が紀元前4千年ごろに神によって6日間で創造された、という教えを捨てることもできない。どうやって、この2つを統合するか?

簡単である。ゴスはこれらの「地質学その他の科学的証拠込み」で、神は6日間で世界を創造したのだ、と書いたのである。大昔の歴史を示す化石や地層等も含めて神が一気に世界を創造したわけである。

これは大変だ。科学者が束になって、それ以前にも生物や地球や宇宙の歴史があった証拠をいくら出しても、「その証拠を含めて、神は6日で世界を創ったのだ」と言われてしまう。

絶対時間を捨てた相対性理論あたりなら何とか反論できるかも(それも、かなり難しそう)しれないが、ニュートン力学では反証できないのではないか?

さらに、ゴスは、アダムが創造されたとき、アダムの腸の中には排泄物(つまりウ●コ)がある状態で創造されたはずだ、とまで考察している(p.115)。アダムが創造される前は当然何も食べていなかったはずだが、それでもアダムには血液があった。血液の中には栄養も含まれていたはずだから、当然、食べていなかった食物から栄養を除いた排泄物が腸にあった、と考えるのが自然である。その他、歯や爪の成長の跡もあったはずだし、エデンの園の木々には年輪がある状態で一気に創造されたわけである。

反証絶対不可能とまでは言い切れないが、反証はかなり難しいのではないか? これは、疑似科学としては非常に良く出来ているものだろう。

ところが、誰もゴスを相手にしなかったらしい。どう考えても非論理的な疑似科学を信じる人が沢山いるのに、これほど論理的なゴスの考えは一笑に付されてしまった。人間とは、何と不思議な生き物なのか。

さらに、それに加えて、現代では、このゴスの考えはより「安全」になっている。

日本のライトノベルでアニメにもなった、谷川流著の「涼宮ハルヒの憂鬱」から始まった、涼宮ハルヒシリーズの設定に、このゴスの考えが含まれているのである。作者が「奇妙な論理」を読んだのかどうかは知らないが、この本は疑似科学考察の古典なのだから、ゴスの考え方を著者が直接間接に知っていたとしてもまったく不思議ではない。

このシリーズでは、涼宮ハルヒという高校1年(現在は2年?)の少女が、自分では自覚していないが、無意識の願望を何でも達成する不思議な力を持っている設定になっている。特に、彼女が中学1年のときに何かやったらしい。そのため、いろいろな筋の組織が彼女を観測しているのだが、中には「もしかしたら、この宇宙は、彼女が中学1年のときに、彼女の願望によって創造されたのではないか」と考える人々もいるのである。人々の記憶にはそれ以前の歴史もあるわけだが、その記憶込みでハルヒが創造したわけである。アインシュタインもニュートンも存在しなかった。彼らが存在したという記憶や証拠がハルヒによって創造されただけである。

ゴスの論理によって、これを否定することはできない。

大変である。もし、ハルヒが世界の創造主であったとしたら、彼女がこの世界を嫌だ、つまらない、退屈だ、などと思ったら、彼女はこの世界を消去してしまうかもしれないのだ。
ということで、キョンというあだ名の男子主人公(クラスメートなどは当然本名は知っているのだが、あだ名でしか呼ばれないために、読者には本名が知らされていない・・・それほど影の薄い普通人)や様々な組織や宇宙人が、わがままで高飛車自己中心的なハルヒの機嫌を損ねないようにがんばらなくてはならない。(その他にも、「ヒロインが何でもありなんだから、こんな考察必要ないだろう?」と言いたくなるほど、いろいろなSF的考察が入っていて、それが面白さにつながっている)。

まあ、内容はともかく、大事なことは、これがアニメ化され、現代は日本のアニメは瞬く間に世界に広がる時代だ、ということだ。

従って、現代でゴスの理論を唱える人がいたとしても、まず「ああ、日本の何とかというアニメの話だな(^^)」と、ジョークとして受け取られること間違いなしなのである。

従って、ゴスの思想は、現代では、もっとも安全な疑似科学のひとつであることは間違いない。

追記:検索してみたら、「オムファロス」はとっくの大昔から有名で、ジョークのネタにもよく使われているようだ。記事書く前に、調べろや(T_T)>俺。

対角線論法撲滅計画にも(ほんのちょっとだけ)愛の手を-いや、撲滅計画は「間違っている!」けどね

対角線論法撲滅計画 のサイトが一般公開されなくなっている。ちょっと困った。大まかな内容は記憶しているつもりだが、正しいかどうか。まあ、記憶が正しいと仮定して話を進める。

----
追記: くれぐれも誤解されないように、最初に書いておきます。

対角線論法撲滅計画の論法は間違っています

私の主張は、対角線論法撲滅委員会のどこがどう間違っているのかを、間違ってはならない、ということです。

「愛の手を」と書いたのは、うっかりすると、斜め読みしてしまって主張を誤解してしまう人がいるので、まずよく読んで、何を主張しているのか把握しましょう、という意味です。
---- 追記終わり

これは、カントールが使ったことで有名な対角線論法について、それはおかしい、としているサイトだ。そこではいくつかの戦線で攻撃を開始しているがそのうちの一つが独特である。

一応、私は数学素人なのだが対角線論法肯定派である。当然、この撲滅計画の論理には反対で、このぐらいなら素人でも反論できる。

ただ、問題なのは、世の中には、対角線論法撲滅計画の作者の主張を間違って受け止めておいて、撲滅計画が間違っていると主張する人がいる(いや、確かに間違ってはいると思うが、反論も見当違いになってるわけだ)。撲滅計画の論法は正しいという人もいるようだが。撲滅計画が間違ってる、と主張している人が正しいとは限らない例もある: htttttttttp://openblog.meblog.biz/article/1879181.html htttttttttp://openblog.meblog.biz/article/1879170.html (ついでに、正しかろうが間違っていようが、議論の的になってリンクが沢山貼られると、検索で上位に来る例でもあるので、リンクは貼らない)。こちらが暴走しているので、相対的に撲滅計画を少しだけ取り上げたわけである。

主張の内容を誤解して、正しいか否かを議論しても迷路に陥るだけだ。

その点において、なかなかユニークな論法なので、ネットから消えるのは少し惜しい気がする。

そこで、この主張を再現してみたい。

撲滅計画の主張では、《カントールは対角線論法によって自然数と実数との間に1対1の対応をつけることができない、としたが、この「対角線論法」がどうも怪しい。この論法が正しいとすると、以下のような変なことが起こってしまう》とする。

  1. 非負偶数すべてを0,2,4,6,8,・・・と列挙する。

  2. これらを、2進数表記する:0,10,100,110,1000,・・

  3. この2進表記をただの'"0"と"1"という記号の列と見なす。

  4. それぞれを左右逆転する。0,01,001,011,0001,・・・。元は偶数だったので、左端の文字は必ず0であることに注意。

  5. 各列の左端の0の次に小数点を打って、小数とみなす。右の空白は0が省略されているとみなす。

    0 ⇔  0 . 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ・・・
    2 ⇔  0 . 1 0 0 0 0 0 0 0 0 ・・・
    4 ⇔  0 . 0 1 0 0 0 0 0 0 0 ・・・
    6 ⇔  0 . 1 1 0 0 0 0 0 0 0 ・・・
    8 ⇔  0 . 0 0 1 0 0 0 0 0 0 ・・・
    10 ⇔  0 . 1 0 1 0 0 0 0 0 0 ・・・

  6. これで、偶数に小数を対応つける1対1の対応ができた。

  7. 対角線論法の方法で、まず対角線の部分をとる。ただし、第3行目から始めることとする(このくらいの修正は何とでもなる。(1)の段階で、4以上の偶数としてもよい)。

    0 ⇔  0 . 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ・・・
    2 ⇔  0 . 1 0 0 0 0 0 0 0 0 ・・・
    4 ⇔  0 . 0 1 0 0 0 0 0 0 0 ・・・
    6 ⇔  0 . 1 1 0 0 0 0 0 0 0 ・・・
    8 ⇔  0 . 0 0 1 0 0 0 0 0 0 ・・・
    10 ⇔  0 . 1 0 1 0 0 0 0 0 0 ・・・
  8. その対角線の部分「0110・・・」の1と0を入れ替えて、頭に「0.」をつけると、新しい小数表現「0.1001・・・」ができる。

  9. 対角線論法により、これは、列挙したどの少数表現とも異なる。(最初の2つの行とも異なる。)しかし、この小数表現を、逆変換したら、新しい偶数となるはずである。従って、すべての偶数を列挙したはずなのに、その中に入っていない偶数ができたことになって、矛盾する。

  10. よって、対角線論法はどこかおかしい。

数学にちょっと詳しい人ならば、すぐに、(6)の段階で、「この対応は、1対1の対応であっても(異なった偶数が同じ小数に対応することはない)、上への写像ではない(偶数と対応しない小数がある)よ」、言い換えれば「単射であっても、全射でない」と言うのではあるまいか? この対応付けでは、漏れがあるという意味である。確かにそうには違いない。

しかし、「だから、この論法では、偶数全体と区間[0,1]との間の間に1対1、かつ上への写像ができることにはならない。従って、[0,1]が可算であることにはならない。素人がよくやる間違いだ」と言ってしまっては、その反論も間違っていることになる。(この間違った反論は、撲滅計画のサイトにも書いてあったと記憶している。)これでは反論にならないのだ。

なぜならば、対角線論法撲滅計画の作者は、この対応で、偶数全体と[0,1]との間に全単射ができるとは主張していないからだ。

撲滅したいのは、カントールが証明した、自然数全体と実数全体との間に1対1かつ上への対応はつけられない、という定理ではなく、対角線論法そのものなのだ。

その証拠に、この対応を列挙した後で、注釈として、(5)における小数表現は、十進小数を想定している、と書いてある。二進小数だとすると、0.00111111・・・ と 0.01 が同じ実数を表すという問題があって煩わしいからだ。十進小数ならばこれらは異なるので無用な議論労力を避けられる。

とすると、十進小数ならば、0.2や0.3もあるわけだが、偶数と対応するのは、小数点以下の数字が0か1のみなので、0.2や0.3に対応する偶数など存在しないわけである。だから、撲滅計画の作者は、漏れ、つまり偶数に対応しない小数があるのは重々承知なのである。

・・・というところで、私が撲滅計画の論旨に賛成していると思われては困るので、あらためて反論してみる。とはいえ、反論は驚くほど簡単だ。単に、対応表をもっと先まで書いてみれば、すぐに気がつく。

-----

0 ⇔  0 . 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ・・・
2 ⇔  0 . 1 0 0 0 0 0 0 0 0 ・・・
4 ⇔  0 . 0 1 0 0 0 0 0 0 0 ・・・
6 ⇔  0 . 1 1 0 0 0 0 0 0 0 ・・・
8 ⇔  0 . 0 0 1 0 0 0 0 0 0 ・・・
10 ⇔  0 . 1 0 1 0 0 0 0 0 0 ・・・
12 ⇔  0 . 0 1 1 0 0 0 0 0 0 ・・・
14 ⇔  0 . 1 1 1 0 0 0 0 0 0 ・・・
16 ⇔  0 . 0 0 0 1 0 0 0 0 0 ・・・
18 ⇔  0 . 1 0 0 1 0 0 0 0 0 ・・・
20 ⇔  0 . 0 1 0 1 0 0 0 0 0 ・・・

対角線の部分を見れば10に対応する小数以下の対角線部分はずべて0であることに気づく。従って、この0と1を置き換えた小数は、0.100111111・・・という1が無限に続く無限小数になる。小数表記というのは、何進数であろうと、小数点の右には0でない数字が無限個あってもよいが、小数点の左側に0以外の数字が無限個あってはならない。従って、この小数表記は左右逆転できないし、当然、10進数に直すこともできない。撲滅計画は頓挫する。

従って、この対応は、偶数に「0.」以下が0か1かの数字しか現れない十進小数を対応させるが、こにきて「単射ではあるが全射ではない」という話が復活する。厳密にみれば、この対応は偶数に0か1かしか現れない「有限小数」(ある桁以後はすべて0の小数)との間に1対1かつ上への写像を定める。従って、対角線部分の0と1を交換した小数はどの偶数とも対応が付かず、0と1以外の数字は現れないから、必然的に無限小数以外にはないのである。

ここでもがいて「しかし何しろ無限なんだから、では、この列挙の順番をいろいろ変えてみたら、何とか先の方まで対角線部分が1(置き換えると0)になるようにできないか?」と思っても無駄なことがわかる。

【定理(というほど大げさではないが)】 この対応関係の行の順番をどのように変えようとも、対角線部分の0と1を入れ替えた小数は必ず無限小数になる。

念のために注意: 0か1しか現れない無限小数だからといって、必ずどこかの桁以降はすべて1になるのだろう、と勘違いしてはならない。表の行の順番によっては、どこまでいっても0も1も現れるような無限小数になることはある。

追記:あ、この対角線論法撲滅計画の本質をきちんと突いて、反論しているサイトがあった(^^)(^^) http://ameblo.jp/clock-necker/archive1-201104.html
この方は、対角線論法撲滅計画のどこが間違っているかを的確に指摘し、正しく論破していると思う。

2011年11月19日 (土)

私は「友達」という言葉の意味を知らない

子供のときから精神障害をわずらって生きてきた者です。

事情があってネットからある程度身を引いていたのですが、自分の人生も後半に差し掛かって、心の整理がやはり必要だ、ということと、普通の心理学の本に書いてない体験があるので、書いてみれば何がしかの参考になるかと思ってブログを書こうと思いました。

病歴

4歳ごろ発病。発病の瞬間の記憶はないが、その前後の記憶はあり、4歳以後は暗黒となる。何故、4歳だと分かるか、というと、幼稚園の頃、2回引越ししたために、記憶の時期がかなり分かるからである。
症状は、朝から晩まで理解できない強烈な不安に襲われる(死の恐怖に近い)。特に、人間が怖い。歳をとるごとにさらにこじれる。

本に書いてない話

いろいろな医者にかかっても、なかなか具合良くならないので、自分の心の病に数理論理学の原則を当てはめてみたことがある。といっても、そんな崇高な理論を使ったわけではなく、論理というものは、文字面とその意味は別物である、という考え方を適用してみただけだ。例えば、「愛」という言葉はあるが、それの意味は人によってかなり異なる。

そこで、気づいた(前から一応は分かってはいたが)ことは、私は人生で大事な言葉の意味を間違えて学習してしまった、ということだ。特に、以下の言葉がすべて「恐ろしいもの」と思い込んでいた。

遊び: 「遊び」という言葉は良く分からないが、とにかく恐ろしいものらしい。しかし、人生は甘くない。子供は、この恐ろしい「遊び」ということを「楽しそうに」行う義務がある。

友達: 友達という言葉は良く分からないが、とにかく恐ろしいものらしい。しかし、人生は甘くない。人間は、この恐ろしいらしい友達を作って、あの恐ろしいらしい「遊び」を行わなければいけない義務を負うらしい。

結婚: 「結婚」という言葉は良く分からないが、とにかく恐ろしいものらしい・・・以下同文。

他にもあるが、こういう基本的な言葉の意味を間違えていたのでは、他の人々とまともなコミュニケーションが取れるわけがない。

20代30代ごろには、さすがにどうやら言葉を間違えていたらしいことに気づいたが、子供の頃に刷り込まれた意味や恐怖はなかなか消えるものではない。それに、結局、まともな友達は作れなかったわけなので、今でも「友達」というのはどういうものなのか、分からないのである。

怖いのは、もし、子供の頃の私を見て「あの子は、いつも一人でいる。何とかして沢山友達をつくらせて遊べるようにしなければ」と張り切る熱血教師などがいたとしたら、私の症状はもっと酷くなっただろう、ということだ。たぶん小学生低学年で自殺していたのではあるまいか。

子供のときに、専門家に出会っていたらどうか? それでもよほど凄い腕の専門家でなければ、まさかこういう言葉の意味を間違えて捉えていた、ということを見抜くことはできないだろう。

こういう子供もいるのだ、ということも、精神医学の専門家やそれを目指す人に認識してもらいたいのだ。

トップページ | 2011年12月 »