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2015年5月

2015年5月30日 (土)

素人が芦部「憲法」を読んでみた (8) 立憲主義の憲法の判断目安

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第一部 総論 > 第一章 憲法と立憲主義

取り敢えず、総論として立憲主義に基づく近代以後の憲法の概略が示されたので、この時点で立憲的意味の憲法の原則に適っているか?の目安を列挙しておきたい。素人なので、私の独断・素人判断である。天皇(皇室)や9条問題などなどは、まだやってないので一旦脇に置く。

まず、立憲主義が外されたらどうなるか、を独断でいくつか列挙してみる。

  • 善意の為政者でも間違いを犯すことはある。しかし、国民にそれを止めることはできない。ましてや、国家権力が暴走したときにはなすすべがない。
  • 国家がその気になれば、国家権力が独占している巨大な暴力が国民に向けられ、国民には抗うすべがない。
  • 民主主義は不可能となる。独裁かひたすら混乱になるだろう。
  • 人権が守られる保障はないので、おそらくどんどん制限されるだろう。そもそも人権の概念は国家権力に対抗するものとして発達したのだから。
  • 国民主権は保障されない。
  • 日本のような大きな国の場合、世界に与える悪影響は計り知れない。従って、単に日本の事情で勝手に立憲主義を壊すような憲法改正をするわけにはいかない。

立憲的意味の憲法の原則に適っているか?の目安

  1. 国民から国家へ、という視線で憲法が書かれているか?
  2. 憲法擁護義務は公権力を持つものであるか?
  3. 公権力を制限することが中心的な目的になっているか?
  4. 国民の自由・人権を(法律からも)守るための記述になっているか? 恣意的な法律作成で自由・人権が制限可能なのは駄目。
  5. 国家権力が国民からの委託であることが明記されているか?
  6. 三権分立など、権力の分立が確立されているか?
  7. 統治体制などの規定が、国民の自由・人権のために奉仕するもの、となっているか?
  8. 硬性憲法であるか?
  9. 人権保障が根本規範として盛り込まれているか?
  10. 個人の尊厳が根本規範の中心として盛り込まれているか?
  11. 憲法が最高法規であるか?
  12. すべての価値の根源は個人の尊厳、という思想があるか?
  13. 国民主権か?
  14. 民主主義と実際に結びついているか? たとえば、国民の人権を制限する法律の内容を決めるのは国民自身である、という思想が反映されているか? 参政権は確立されているか? など
  15. 価値の押し付け(思想・信条の自由に反する)になり得る道徳(道徳違反が犯罪になり得る)が規定されてないか?
  16. 自由権だけでなく、社会権なども保障されているか?
  17. 現在一時に関する内容でなく、憲法は後に残るものだから、政権が変わっても「悪用」されないように書かれているか?
  18. 国民の義務がやたらに入っていないか?(なくてもよい)

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2015年5月21日 (木)

素人が芦部「憲法」を読んでみた (7) 立憲主義と現代国家──法の支配

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第一部 総論 > 第一章 憲法と立憲主義

五 立憲主義と現代国家──法の支配

立憲主義思想は法の支配(rule of law)と密接な関係がある。

1 法の支配

発生: 中世の法優先の思想。

専断的な国家権力の支配(人の支配)を排斥し、権力を法で拘束することによって、国民の権利自由を擁護することを目的とした原理。

現在、法の支配の内容として重要なもの:

  1. 憲法の最高法規性
  2. 権力によって侵されない個人の人権
  3. 法の内容・手続の公正を要求する適正手続(due proccess of law)
  4. 権力の恣意的行使をコントロールする裁判所の役割に対する尊重

など。

2 「法の支配」と「法治国家」

戦前のドイツの「法治主義」「法治国家」との違い:

(一) 民主的な立法過程との関係

法の支配では、

立憲主義の進展とともに、市民階級が立法過程へ参加することによって自らの権利・自由の防衛を図ること、したがって権利・自由を制約するする法律の内容は国民自身が決定することを建前とする原理であることが明確になり、その点で民主主義と結合するものと考えられたことである。

(第五版 p.14、強調ブログ主).

戦前のドイツの法治国家(Rechtsstaat)の観念は

もっぱら、国家作用が行われる形式または手続きを示すものにすぎない。

民主主義と結合するとは限らず、どんな政治体制とも結合しうる。

(二) 「法」の意味

法の支配での「法」: 内容が合理的でなければならない。人権の観念とも固く結びつく。

法治国家での「法」: 内容とは関係ない形式的な法律。

ただし、戦後のドイツではナチズムび経験と反省に基づいて、違憲審査制が採用され、その意味では、形式的法治国家から実質的法治国家となり、法の支配の原理とほぼ同じ意味になっている。

3 立憲主義の展開

(一) 自由国家の時代

近代憲法に実定化された立憲主義→19世紀「自由国家」の下で進展。

個人の自由意志に基づく経済活動が広く容認

国家は経済的干渉も政治的干渉も行わずに、社会の最小限度の秩序の維持と治安の確保という警察的任務のみ。

自由主義国家、消極国家、(軽蔑的な意味で)夜警国家、と呼ぶ

(二) 社会国家の時代

資本主義の高度化にともなって、富の偏在、労働環境劣悪化、独占グループの出現。

→ 国家が、一定の限度まで積極的に介入し、社会的・経済的弱者の救済に向けて努力が必要となった。

社会国家、積極国家、福祉国家、などと呼ぶ。

行政権の役割が飛躍的に増大。

考察

ここで、行政権の重要さが出てくるのか。

4 立憲主義の現代的意義

(一) 立憲主義と社会国家

立憲主義: 国家は国民生活にみだりに介入すべきでない、という消極的な権力観から。

→ 国家の社会への積極的な介入を認める社会国家思想と立憲主義は矛盾しないか?

立憲主義の本来の目的は、個人の権利・自由の保障であるから、このふたつは両立する。

考察

これは難解だ。両立する、とは言っても、自動的に両立するわけではなく、対立しやすいことは確かだろう。国家が介入しないかするか、の問題だから。

自由権と社会権との関係につながる話だと思うが、社会権は個人の自由・権利を守るために国家に積極的な介入を求める『国民の権利』だが、これは「国家が個人に積極的介入ができる『国家の権利』」に化けやすい (少なくとも、国民のメンタリティから言って日本では)。こうなると両立どころではない。

この社会権の変質を食い止めるために、自由権の存在価値はむしろ強くなったのではないか? 社会権の名目で、自由権の侵害になるまで国家が介入するのを防ぐために。

(二) 立憲主義と民主政治

立憲主義と民主主義の緊密な結びつき:
  1. 国民が権力の支配から自由であるためには、国民みずから能動的に統治に参加する民主制度を必要とする。
    当然、国民が政治に無関心となった状態では、自由は保障されないわけだ。
  2. 民主主義は、個人尊厳の原理を基礎とするので、すべての国民の自由と平等が確保されてはじめて開花する。

民主主義は単に多数者支配の政治を意味せず、実をともなった立憲民主主義でなければならない。

立憲主義が成立するためには民主主義が必要で、民主主義が成り立つためには立憲主義が必要だ、ということだな。Rikkenminshu

自由と民主の結合は、近代憲法の発展と進化を支配する原則。

戦後の西洋型民主性国家:「民主的法治国家」→「法治国家的民主主義」。

注釈として、民主主義は自由主義を必要とすることが書かれている。

考察

立憲主義と人権、自由、法の支配、などなどが有機的に見事に関連しあっている。

しかし、やっかいなことに、人間は口では「自由が欲しい」と言いながら、自由を怖がる傾向も強い。全部自分で決めなければいけないのはしんどいし。

また、「自由」と言う言葉で「わがままを通す」という意味に捉えることも多い。この言葉が何を意味するのか、が人によって解釈が違ったりする。

また「個人の尊厳」という言葉も、日本ではまだ共通認識には程遠い(戦後70年たってもなおそういう状況)。少なくとも、個の確立には「自分と同じ人間は二人といない」ということの認識が必要なので、非常な「孤独」を伴う。人間は孤独になるぐらいなら死を選ぶことも多い。自分の個によって他人から否定される恐怖というのも非常に強いものがある。人に頼る法が楽。

これらの問題の解決がないと、この立憲主義とそれに関係の深い原理が働かなくなる可能性はある。

これは、法学を全く知らない素人が、芦部信喜他「憲法」(第五版) (憲法関係だけでなく、法学全般で持っている参考書が基本的にこの本だけ。六法全書も持っていない)を読んで考えたことが記されています。

愚痴

専門家には初歩の初歩で、素人的勘違いもあるでしょうが、為政者の中に芦部信喜教授の名や立憲主義を知らない人々がいるというのでは、素人であっても勉強するしかない。ブツブツ。何て時代だ。

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2015年5月16日 (土)

素人が芦部「憲法」を読んでみた (6) 立憲的憲法規範の特色

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Mokuji_4
目次

第一部 総論 > 第一章 憲法と立憲主義

四 憲法規範の特質

前項の例えば機能的分類とは言っても、規範的な立憲的憲法の特質とは何であるかがわからないと無意味だ。

立憲的憲法規範の特徴として、3つ示されている。

  1. 自由の基本法 ・・・ 憲法の根本規範が人権と自由を保障するものであって、統治機関はそれに奉仕するものとされること。特に、個人の尊厳が根本規範の中核。
  2. 制限規範 ・・・ 憲法が公権力を制限するものであること。すべての価値の根源は個人にあること。従って、憲法制定権力は国民にあること。
  3. 最高法規 ・・・ 人間の権利・自由をあらゆる国家権力から守るために、最高法規となっていること。憲法は法律とまったく異なるということ。憲法が一つの価値体系となっていること。

1 自由の基本法

自由の法秩序であり、自由主義の所産。

憲法は当然、国家権力の組織を定め、かつ授権する規範が不可欠であることは当然。しかし、それは憲法の中核ではない。

組織規範・授権規範は、より基本的な人権規範に奉仕するものとして存在する。

←自然権の思想。Jiyuu_no_kisohou

この自然権を実定化した人権規範は、憲法の中核を構成する「根本規範」(憲法それ自身の根拠を実定化したもの)。

この規範を支える核心的価値人間の人格不可侵の原則(個人の尊厳の原理)である。

つまり、人権規範憲法そのものの根拠を憲法内に書いたものであって、中核が人格不可侵の原則、ということは、現行第十三条あたりは、憲法の根拠の中核になるわけだ。だからこういう部分はちょっとやそっとのことで変えてはいけない部分だな。

しかし、日本では「個人の尊厳」という考え方が浸透しているとは言い難い。そこがやっかいだ。それは多くの日本人が憲法の根拠を理解していないことを意味するから。もちろん、単なるわがままを個人の尊厳と言うわけにはいかない。

注意書き: 純粋法学の創唱者として著名なケンゼル(Hans Kelsen, 1881-1973)は、根本規範を、実定法の最上位にあってその妥当性(通用力)の根拠となる思惟のうえで前提された規範としたが、この教科書では、実定法として定立された法規範
根本規範は、憲法が下位の法令の根拠となるように、憲法の根拠となり、またその内容を規律するもの。(つまり、憲法そのものの根拠が憲法内に書いてあるということか?

2 制限規範

憲法が国家権力を制限する;基礎法であること。

近代憲法の構成要素

  • 権利章典
  • 統治機構

の関係を考える上で特に重要。

近代憲法の前提: すべて個人はたがいに平等な存在であり、生まれながらにして自然権を有する。⇒ 実定化。

すべての価値の根源は個人にある、という思想。

;政治権力の究極の根拠も個人(国民)に存する。

憲法を実定化する主体は国民であり、国民が憲法制定権力(制憲権)の保持者

自然権思想 ⇔ 国民の憲法制定権力 ⇔ 国民主権

3 最高法規

憲法九十八条より

この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

硬性憲法であることから、憲法が形式的に最高法規であることは当然。

むしろ、最高法規としての憲法の本質は

憲法が実質的に法律と異なる

(第五版 p.12)こと。憲法は法律ではない、という原理は繰り返す価値がある。

つまり、憲法が最高法規である理由は、その内容が、人間の権利・自由をあらゆる国家権力から不可侵のものとして保障する規範を中心として構成されているから。

さもなければ、国家権力が人間の権利・自由を侵害されるおそれがあるわけだ。

現行憲法 第十部 「高最法規」の冒頭にある、第九十七条

この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

は、硬性憲法の建前(九十六条)、憲法の形式的最高法規性(九十八条)の実質的な根拠を明らかにした規定。

考察

現行憲法97条 と 11条 は重複している、という指摘も多いし、実際、内容に重なってる部分は大きいが、少なくとも芦部信喜教授は、97条がこの位置にあることを重要視する立場のようだ。

この教科書には書いてないが、この条文の「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ」という部分も大事だと思う。この「努力」という言葉には市民革命などで「血を流した」意味も含まれていると思うからだ。

この立場は:

憲法を一つの価値体系と捉え、「個人の尊重」の原理とそれに基づく人権の体系を憲法の根本規範(basic norms)と考える ⇒ 憲法の価値序列を認めることになる。(憲法は、単なる条文の羅列ではなく、条文の重みも異なる、ということ?)

考察

個人的には、この価値体系、というか、憲法全体がただの条文の羅列ではなく、各条文が有機的に組み合わさって、ひとつの思想体系となっていることの美しさに感動した。もちろん、個人的なことなので、美しくないという人々も沢山いるだろう。もちろん、もし美しかったとしても、それが日本国憲法として適切か否かは別問題である。

注意: 今日は精神状態が悪いので、消化しきれずにアップするが、この部分は立憲的憲法の核心部分のひとつなので、後に加筆訂正する可能性があります。

これは、法学を全く知らない素人が、芦部信喜他「憲法」(第五版) (憲法関係だけでなく、法学全般で持っている参考書が基本的にこの本だけ。六法全書も持っていない)を読んで考えたことが記されています。

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2015年5月12日 (火)

素人が芦部「憲法」を読んでみた (5) 憲法の分類

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Mokuji_4
目次

第一部 総論 > 第一章 憲法と立憲主義

三 憲法の分類

1 伝統的な分類

(一) 憲法の形式・性質・制定主体による分類

伝統的な分類は必ずしも現実の憲法のあり方を実際に反映するものではない(第五版 p.8)。

  1. 形式として: 成典か不成典か ---  イギリスのように成分憲法典を持たない国でも、実質的に憲法にあたる部分は多数の法律で定められており、容易に改定できない。
  2. 性質として: 硬性か軟性か --- イギリスと逆に、硬性の憲法を持つ国でも頻繁に改正が行われていることも多い。
  3. 憲法を制定する主体として: 欽定憲法か民定憲法か協約憲法か

考察

立憲的な憲法は硬性でなければならぬ、ということは、私個人としては納得しているのだが、日本人一般としてこれの重要性を理解するかどうか懸念がある。この重要性を皆が理解するように表現するのは難しい。

個人的にあh、日本人はその場の雰囲気に流されやすい傾向があるので、じっくり議論するために、他の国よりも憲法は硬性でないとまずいのではないか?と思う。

また、硬性憲法でも憲法改正を何度もやった国が沢山あるのだから、憲法が硬性であるために日本が憲法改正がなかなか行われなかった、とするのはあまりに無理がありすぎるだろう。

そもそも、外国が憲法改正を何度もやっているから日本もやらないとおかしい、という話は、あまりにもみっともない。外国のことなどどうでも良い。現在の憲法が実情に適っていれば改正の必要はまったくないし、実情に適っていなければ誰でも納得するような改憲案を堂々と出せば硬性であっても賛成は得られるだろう。

姑息な手段で憲法改正などやるのは、それこそ国民を馬鹿にしているし、責任感がないにも程がある。

そもそも、憲法を軟性にしてしまえば、ある為政者が憲法改正手続きから国民投票を外してしまって、硬性に戻し、憲法改正が国民の手に届かないようにすることも可能なのである。

(二) 国家形態による分類
  1. 君主制か共和政か(君主が存在するか否か)
    君主制でも
    1. 絶対君主制
    2. 立憲君主制
    3. 議会君主制
  2. 大統領制か議員内閣制か
  3. 連邦政府か単一国家か

この伝統的な分類も、必ずしも憲法の分類として大きな意味があるとは限らない。

例えば、君主制のイギリスでも民主主義が確立している場合もあるし、共和制でも非民主的な国は少なくない。よって、

独裁制か民主制か

の分類の方が意味がある。

考察

確かに伝統的な形式的分類には問題がありそうだ。
日本は憲法が変わっていない2015年現在及びその数年前から、民主制だった筈なのに内閣総理による独裁制に移行してきている気がする。

また、大統領制や議会制にもいろいろな形態がある。

2 機能的な分類

伝統的な形式的分類にかわって、戦後、現実の政治過程において実際にもつ機能に着目した分類が主張されるようになった。

例: レーヴェンシュタイン(karl Loewenstein, 1891-1973)提唱

  1. 規範的憲法: 政治権力あ憲法規範に適応し、服従しており、憲法が関係するものすべて(A公権力であって、一般国民ではない)に守られている
  2. 名目的憲法: 成分憲法典は存在するが、それが現実に規範性を発揮していない
  3. 意味論的(semantic)憲法: 憲法そのものは完全に適応されていても、実際には現実の権力保持者が自己の利益のためだけに既存の生権力の配分を定式化しているだけ。独裁国家や開発途上国家によく見られる。

このような存在論的(ontological)分類は主観的判断が入る可能性という問題があるが、立憲的憲法が、どの程度現実の国家生活において実際に妥当しているか測る上で、有用

考察

この分類に関しても、ここ数年で日本憲法は文面が変わっていないが分類上は変化しているように思う。

これは、法学を全く知らない素人が、芦部信喜他「憲法」(第五版) (憲法関係だけでなく、法学全般で持っている参考書が基本的にこの本だけ。六法全書も持っていない)を読んで考えたことが記されています。

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2015年5月10日 (日)

素人が芦部「憲法」を読んでみた (4) 立憲的意味の憲法の形式と性質

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Mokuji_4
目次

第一部 総論 > 第一章 憲法と立憲主義 > 二 憲法の意味

若干、後の部分を先取りした部分もあったが、気を取り直して、先に進もう

二 憲法の意味

2 立憲的憲法の特色

ここでは、立憲的憲法がどのような特色を持つべきか、が書かれている

(二) 形式と性質

立憲的憲法の形式は成文法、性質は硬性

  1. 成文憲法
    成文法は慣習法に優る、という考え方もあるが。
    国家は自由な国民の社会契約によって組織され、それをを具体化したものが根本契約たる憲法。契約である以上は文書化が必要で望ましい。
  2. 硬性憲法(通常の法律より難しい手続きによらなければ改正できない)
    自然権、社会契約説。
    憲法は社会契約を具体化する根本契約であり、国民の不可侵の自然権を保証するものだから、(憲法によって作られた権力である)立法権にはこれを改正する資格を持たない。この改正する資格は国民にのみ許される。従って、憲法の改正は特別の手続きによって行わなければならない

立憲的意味の憲法は簡単に(法律なみに)改正できるものであってはならない、という根拠のひとつが示された。注意書きで、憲法典の存在しないイギリスでは軟性であることが指摘されている。(ただし、根幹にかかわるような改正はやはり難しい、ということも後に書いてある。)

また、憲法の改正の資格は立法権にはなく、国民にのみ許される、というところも大事だろう。すると、国家の発案による憲法改正、ということは、そもそもおかしいということになる。ところで、ところで、国民による改正の発案、というのはどのような手続きで行われるのだろう?(追記:発議は国会となってる。内閣の発議ではない。)

考察

憲法は国民と国家の間にかわされる契約書である、という考え方は、私個人としては「へえ、そういう仕組みになってるのか」と、特に違和感は感じないが、多くの日本人は違和感を感じるのではないか? ということが気にかかる。

日本人の多くは「契約」という言葉を、せいぜい法的強制力を持つ「強い約束」ぐらいの感覚が多いのではないだろうか?
しかし、西洋では「契約」という言葉は「約束」というものよりはるかに重い。従って、憲法が根本契約の契約書である、ということは大きな強制力を持つ。しかし、日本の風俗習慣では、「契約」というものにそこまでの重みはないように思う。これは、日本に民主主義が根付く障害になる可能性があると思う。つまり「契約」という概念において、日本は西洋諸国より強制力が小さいと思われる。通常の商取引などでの「契約」は、不履行に関する罰則が法律で定められる。しかし、憲法は法律の上にあって最高法規であるから、逆に憲法を無視する行動に関する罰則がどうであるか、が問題となる。日本では契約という概念に関して強制力が弱い、ということは、為政者が憲法を守ろうとする意識や一般国民が政府がきちんと憲法を守るかどうか監視する気持ちが弱い、ということになる。
天賦人権説が西洋的と言う意見が聞かれるが、大日本帝国憲法における天皇の地位の根拠も天賦と考えることもできる。むしろ、西洋的なのは、この「契約」という概念を使っていることではなかろうか?

これは、法学を全く知らない素人が、芦部信喜他「憲法」(第五版) (憲法関係だけでなく、法学全般で持っている参考書が基本的にこの本だけ。六法全書も持っていない)を読んで考えたことが記されています。

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2015年5月 8日 (金)

素人が芦部信喜「憲法」を読んでみた (3) 人権と立憲主義の歴史

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Mokuji_4
目次

第一部 総論 > 第一章 憲法と立憲主義

二 憲法の意味

2. 立憲的憲法の特色

(一) 淵源

ここでは、立憲主義の発生と簡単な歴史が述べられる。
立憲主義と人権は密接な関係にあるので、第五章 基本的人権の原理 一 人権宣言の歴史 の内容も先取りして、合わせて大まかな歴史を押さえてみる。Rekishi_2

立憲主義の淵源・人権宣言の萌芽

思想史的には中世に遡る。

(絶対的な権力を持つ)国王といえども従わなければならない高次の法(higher law)があると考えられ、根本法(fundamental law)とも呼ばれた。

(第五版 p.5)。ただし、貴族の特権の擁護を内容とする封建的なもので、人民の自由・権利を保障したものではない。

考察

当然のことながら、完全に君主がすべてを支配する絶対君主であった場合は、立憲的意味のものは無い。

人権宣言としては、イギリスが最も早く登場。人権の萌芽ではあるが、「人権」というよりは「国民権」。近代人権史における前史。

  • 1215 マグナカルタ
  • 1628 権利請願
  • 1689 権利章典

自然権の思想

ロック(John Locke, 1632-1704)、ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712-78) などの説いた近代自然法ないし自然権(natural rights)、社会契約の理論。

  1. 人間は生まれながらにして自由かつ平等であり、生来の権利(自然権)を持っている。
  2. その自然権を確実なものとするために社会契約(social contract)を結び、政府に権力の行使を委任する。
  3. 政府が権力を恣意的に行使して人民の権利を不当に制限する場合には、人民は政府に抵抗する権利を有する。

考察

自然権、というものの詳しい内容までは分からないが。とにかく、人間が生まれながらに持っている、ということは、法というものが制定される前の、それこそ原始時代からあったものであって、それを法によって実定化したもの、と考えられる。ただし、この権利は侵害可能であることは明らか。侵害不可能であれば、そもそも法で規制する必要がないのだから。ただ、人権は侵害されても潜在的にはなくなるものではなく、人権侵害という犯罪が可能である、というだけなのだろう。

また、自然権というからには、人が「こういう権利が欲しい」と感じるものがすべて人権とみなされるわけではないことになる。こういう権利が欲しい、となったとき、それが生まれながらに人間が持っている権利とみなせるか否かは吟味が必要となる。つまり、人権というのは人為的に恣意的に定めるものではなく、もともとあったものを法学が「発見」しつつある(全貌はまだ分からない)という発想だ。だから、人権リストが単純に増加する、というわけではない。もし、ある人権と見なされていた権利が、やはりこれは生まれながらの権利と言うのには無理がありすぎる、とされれば、人権リストから外されなければならないだろう。逆に、今まで発見されていなかった人権が将来発見されてリストに追加されることもあり得る。社会情勢によって、何を人権とみなすべきかも変わってくるだろう。

ところで、抵抗権は憲法に書かれていない。成文法ではない。だから「抵抗権は憲法に保証されている」と言うわけにはいかない。

市民革命・人権宣言の誕生

  • 1776-89 アメリカ諸州の憲法
  • 1788 アメリカ合衆国憲法
  • 1789 フランス人権宣言
  • 1791 フランス第一共和制憲法

など。

フランス人権宣言 第16条

権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない。

十八世紀末の近代市民革命とともに、はじめて近代的な人権宣言が誕生する(第五版 p.76)。考察: 近代的な立憲主義もこのときに誕生した、と考えるのが筋だろう。

人権を生来の前国家的な自然権として宣言し、保障。

ヴァージニア憲法 1条

すべての人は、生来ひとしく自由かつ独立しており、一定の生来の権利を有するものである。これらの権利は、人民が社会を組織するに当たり、いかなる契約によっても、その子孫からこれを奪うことのできないものである。

フランス人権宣言 第1章

人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する。社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない。

コメントとして、アメリカの人権宣言とフランスの人権宣言との違いについても触れられている(第五版 p.77)。素人なので深入りはしないが。

人権宣言の普及---自然権としての人権観念の衰退

外見的人権: ヨーロッパ諸国に人権宣言を含む近代立憲主義の憲法。19世紀から20世紀前半では「国民」の権利を保障するものが多く、自然権的な人権の観念は必ずしも採用されなかった(第五版 .p.77)。

「人権」から「国民権」へ衰退

立憲主義に関しても、名目的憲法であって、法律により、人民の権利や権力の制限が行われるに過ぎなかった。大日本帝国憲法でも、これにならっているので、立憲君主制の形はとっているが、法律による留保 が伴った(各権利は法律に定める範囲で認められたので、法律により制限可能だった)。

衰退した理由(第五版 p.77)

  1. 合理主義、社会主義の思想が発達して、18世紀の自然法思想にとってかわった
  2. 議会制が確立し、議会(法律)による権利の保障という考えが有力になった
  3. 法学の対象を実定法に限定し、自然法的なもの政治的なものを排除し、実定法の論理的解明のみを法学の任務と考える法実証主義(legal oisitivism)が広まったこと

考察

まあ、自然権のような考え方は、法の根拠を法学の外に求めるようなものだから、そりゃ当然、扱いが難しいよな

第二次世界大戦

ナチズム・ファシズムの悲劇

人権宣言の普及---戦後の発達

初期の人権思想が見直される。

外見的人権 ⇒ 人間が人間であることに基づいて論理必然的に享有する権利としての人権

考察: 法学が実定法のみで自己完結するわけには行かなくなった、ということか?

人権:

「法律による」保障 ⇒ 「法律からの」保障、「国家からの」自由

人権は法律によっても侵されてはならない

立憲主義の大きな変化: 立法権に対する信頼による伝統的な立憲主義に代わり、 人権の「法律からの」保障 という考え方に変化した。(追記:日本国憲法の成立を考えると、この時点ではじめて「法律からの保障」という考え方が出来た、というのは読み間違い。アメリカにはすでに憲法による人権の保障があった筈。ざっと検索してみるとhttp://www.itojuku.co.jp/sch_cyuo/pdf/0826A001-BSY.pdf アメリカは独立当初から憲法による保障だったが、ヨーロッパ諸国では法律による保障だった。戦後ヨーロッパ諸国でも憲法による保障に変わったようだ。)

考察

こうしてみると、「憲法は法律ではない」、という立憲主義の原理は、ナチズムの悲劇を二度と繰り返してはならない、という考え方から出てきたことがわかる。(追記: この考察は間違い。前からあった。戦後、重要視されたかもしれないが、人権宣言でこの考え方はある)ヒトラーのやったことの本質は「民主主義的憲法の下で、(少なくとも形式的には)民主主義的手続きで、独裁制を成立させた」こと。

 世界はナチズムの手口に学び、それを克服する答えのひとつが、憲法は法律ではない、という原理と考えられる。ある意味、アメリカは日本に「この国にヒトラーみたいな奴を出すんじゃねえぞ!」と憲法を押し付けた、とも見ることもできる(それだけではないが)。どうやら、ナチズムの手口を最も学んでいないのは日本かもしれない。

この原理を覆すことは、ナチズムの悲劇を繰り返す可能性(最悪の場合、第三次世界大戦を引き起こす可能性)が出ること。

人権宣言の社会化

19世紀: 自由権を中心 「国家から」の自由・保障

20世紀以降: 社会権をも保障する社会国家的人権宣言 「国家による」自由・保障

人権の国際化

人権を国内法的に保障するだけではなく、国際的にも保障。

国家憲法による保障国際的な保障

これも、第二次世界大戦の悲劇を繰り返さないための智慧のひとつとも見なせる。

それにしても

基本的人権の原理や立憲主義の基本的な仕組みは、中学校あたりで必須科目となってなければおかしいな。細かいところはともかく、基本的な仕組みは充分中学生でも理解できる内容だし。

これは、法学を全く知らない素人が、芦部信喜他「憲法」(第五版) (憲法関係だけでなく、法学全般で持っている参考書が基本的にこの本だけ。六法全書も持っていない)を読んで考えたことが記されています。

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2015年5月 7日 (木)

素人が芦部「憲法」を読んでみた(2) 立憲主義について考える

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Mokuji_4
目次

第一部 総論 > 第一章 憲法と立憲主義

じっくり読むはずが、駆け足になってしまった。この教科書の最初の十数ページで憲法とは何か、についての大事なこと(立憲主義)が書かれている。これは憲法改正の動きが強まっている中でよく考えるべきことだ。そこで私なりの考察をしてみる。素人考察なので、公平とはいかないが。

伊藤博文も立憲主義を理解していたようだ

「そもそも、憲法を創設するの精神は、第一君権を制限し、第二臣民の権利を保護するにあり。ゆえに、もし憲法において臣民の権利を列記せず、ただ責任のみを記載せば、憲法を設くるの必要なし」

 

人は間違える、人はものごとを善意で行うとは限らない

まず、立憲主義の考え方の元にあるのは、人間は間違える生き物であり、また、善意とは限らず悪意も抱く生き物である、という自覚があると思う。

国民も国家もそうである。両方とも暴走する可能性がある。ただし、権力を持つものが暴走した場合の被害は桁違いに大きい。だから、成文化して制限することが必要となってくる。これは、公権力を持つ者にとっても長い目で見れば立憲主義は必要なのだ。また、それだけの懐の深さが要求される。

「私は絶対に正しい。間違えることなどない」と言う人は政治家になる資格はない。

国家の「暴力」独占

まず、立憲主義の大事さとして、国家の中で「暴力」を最も独占しているのが国家権力そのものである、ということがあげられる。国家権力は「力」なのである。

というか、「力」がなければ統治などできないのだから、それを持つのは必然だ。

従って、立憲主義が外れてしまうと、国家が国民に牙をむいたとき、国民には抗うすべがない。立憲主義の外れた憲法を受け入れることは、国民の自殺行為である。思想や見解の相違で片付けられるものではない。

本来、国家権力は国民が委託したものなのだが、為政者がそれを自分のものとして恣意的に利用すると国民の死活問題となる。

権力を縛るものはすべて「立憲主義」か?

立憲主義は権力を縛るもの、というと、権力を縛るものはすべて立憲主義か? という疑問がわいてくる。

よく分からないが、権力を縛るものをすべて「立憲主義」と言ってしまうと、この言葉が独り歩きしてしまうだけのような気がする。例えば権力の分立というのも、分立によって相互規制をするわけだから、ある意味権力を縛るもの、とも言える。しかし、立憲主義でなくとも分権はあり得る、と考えることもできる。

取りあえず、「立憲主義」という言葉は、「憲法の最も主要な目的は権力を縛って国民の自由・人権を守るもの」というような文脈のみに使った方が良さそうだ。(もちろん、憲法は国家の統治の仕組みを定めるなどの大事な目的もあるが、メインの目的ではない、ということ。)

民主主義との関係

国民が民主主義を行うためには、国家権力からの自由や人権侵害があってはならない。従って、民主主義のためには立憲主義が必要である。立憲主義が外されてしまえば民主主義は不可能となる。

逆に、立憲主義が機能するためには、国民が積極的に政治に参加することが必要なので、立憲主義の成立のためには民主主義は必要である。国民が国家や政治などに無関心でいると、立憲主義も機能が難しくなる。

こう考えていくと、立憲主義と民主主義は緊密な関係であると考えざるを得ない。

多数決との関係

民主主義、イコール多数決、と思っている人々がいるが、これらは全く異なる話である。多数決というのは、ものごとを決めるための方法のひとつに過ぎない。
民主主義ではそれが不可欠の道具となっているだけで、非民主的な国家でも多数決は使われている。

重要なのは、多数決で決まったことがらが正しいとは限らない、ということだ。多数決による決定は常に正しい、というのは迷信である。たとえば、国会議員はやはり権力を持つ人物たちなので、その多数決が国民にとってよいものかどうかは保障されない。

国会で法律を通すとき、大多数の賛成があったとしても、それが違憲のものならば訴えられたとき「少数者」の裁判官が違憲判決を下すことができる。

立憲主義は、多数決の落とし穴を回避する仕掛けの一つとしてもとらえられる。

憲法の擁護義務の行方

憲法がもし「法律の親玉」ならば、当然、憲法を守る義務があるのは国民全体となる。しかし、憲法は法律ではない。

憲法は、国民から国家への命令、と考えられるので、一般国民は原則として憲法を守る義務というのはない(まあ、納税の義務などもある(「それは憲法に書かなくて良い」という人も多い。厳密には、何故憲法に国民の義務が書いてあるかの本当の意味は、私には分からない)が、全体として)。

実際、現行憲法では

第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

となっていて、擁護義務を負うのは、大雑把に言って公権力を持つ者とされる。一般国民は憲法の擁護義務から外されている。

国民が憲法を守るのではなく、憲法が国民を守っているのだ。

憲法が立憲主義に則っているかどうかは、条文が全体として、国民から国家へという視線の文章になっているかどうかでも見分けられる。

立憲主義を外すのは憲法で許されているか?

憲法は改正が許されている。そこで、立憲主義を外す改正が許されるかどうか?

憲法の改正手続きに従えばどんな改正でもよい、とする無限界説を唱える専門家もいると聞いているので、それらの方々の意見に従えば、可能だ、ということにもなる。

ただ、そもそも憲法の核心の目的が、公権力を制限して国民の自由・人権を守ること、なのだから、立憲主義を外すというのは、実質上、近代憲法ではなくなってしまう、ということになる。憲法でなくなってしまうのを改正と言っていいのだろうか?

また、現行憲法の前文では

これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

とある。

この文章は、現行憲法の原則を損なうような改正は、憲法改正手続きによっても認められない、と読むのが自然だろう。排除するものの中に憲法も含まれるのだから。立憲主義は憲法の目的の核心なのだから、これを外す改憲は違憲だと見なすべきだろう。

三権分立との関係

論理的に考えれば、立憲主義はそれだけでは機能しないことが分かる。権力の分立がきちんとできていて、はじめて機能する。

もし、国会で不当な人権侵害をする法律が通って、それで、誰かが犠牲になり裁判所に訴えたとき、司法が独立していてはじめて「それは違憲だ」とできる。

世界への責任

第二次世界大戦の悲劇によって、人権や立憲主義も進化した。立憲主義は国家が暴走するのを防ごうとする仕組みの一つであって、暴走を許したら、世界に新たな悲劇を呼ぶ可能性もある。これは、一国の自由だ、と言うわけにもいかないのではなかろうか?

世界への責任という意味でも、国家の暴走を防ぐ仕組みの立憲主義はきちんと守る必要があると思う。

考え付いたところは、今のところこのぐらいだが、もし、将来にまた別のことを思いついたら、またその考察を書くかもしれない。

この記事は 芦部信喜他「憲法」(第五版)を素人が読んだ考察について記しています。

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2015年5月 6日 (水)

素人が芦部「憲法」を読んでみた(1) 立憲主義

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Mokuji_4
目次

いよいよ、憲法改正の動きが強くなってきた。

よく分からないが、憲法改正となると、無関心ではまずいだろう、こういうときは下手な入門書などより、無理をしてでもきちんとした教科書を読んだ方がいい。
で、芦部信幸著 高橋和之補訂「憲法」(第五版) を取り寄せて読んでみた。(現在は第六版が出ている)。
聞くところによると、この著者と補訂者は法学部(及びその周辺の学問専攻)の人間ならば知らない者はいないほどの権威者であって、たとえ芦部教授と異なる意見を持つ者でさえ、まずは芦部教授の考え方を学ばなければいけない人であるようだ。
教科書が書かれる前でも偉大な業績を残した人物たちなので、この本が書かれる前でも非常に有名だった。また、この本は司法試験を受ける人も、やはり基礎として熟読する必要がある教科書のようだ。 ということは、芦部教授の考えがすべて正しいとは限らないとしても、素人としてはこの教科書を熟読すれば、憲法のかなりの基礎教養が得られると考えてよいだろう。

第一部 総論 > 第一章 憲法と立憲主義

取りあえず、第一章 憲法と立憲主義 を読んでみる。 いきなり立憲主義が出てきた。

一 国家

まず、「国家」とは何か?が述べられている。立場によってこの言葉の意味が異なる(それ はそうだろう)が、取りあえず、社会学的な見方として、

Kokkaron
  1. 領土
  2. 権力

の3つからなる考え方が出ている。これにも異論があり、また、法学的な立場では「国家」を国家権力ないし権力の組織体を指す場合もある、と。

取りあえず、ここは導入なので、いろいろな見方がある、ということだけ押さえて次に進もう。

二 憲法の意味

「憲法」という言葉の意味も沢山あり得る。ここでは大きく三つの意味が出されている。Kenpouimi

  1. 形式的意味 : 「憲法」という名称で呼ばれる成分の法典(憲法典)。内容には関わらない。
  2. 実質的意味
    1. 固有の意味: 国家の統治の基本を定めた法。どの時代のどの国家にもある。
    2. 立憲的意味: 自由主義に基づいて定められた国家の基礎法

著者はこのうちで、立憲的意味が「憲法のもっともすぐれた特徴」と言っている。

だから、まず、この立憲的意味を中心に理解することが大事となる。

立憲的意味の憲法は、権力を制限して人権を保障するもの。

ここで、駆け足だが、第一章をざっと読んで、最も重要でしっかり理解しなければいけないことを先取りしておく。

まず、近代憲法は国家と国民の間の社会契約を成文化したものであること。

Keiyaku

国家は国民から権力行使を「委任」される。このときの国家権力行使に関する「契約書」が憲法という位置づけ。

そして、より大事なことは

最高法規としての憲法の本質は。むしろ、憲法が実質的に法律と異なるという点に求められなければならない

(第五版 p.12)のところだと私は思う。

追記注意: この教科書で言う「法律」は国会(つまり立法権)によって作られた成文法規(および、条例などのそれに準ずるもの)を指していると思われる。

憲法は法律ではない

法律を 国家→国民 への命令だとするならば、憲法は 国民→国家 への(不当な人権侵害をしてはならぬ、などの)命令。国民主権人間の権利・自由をあらゆる国家権力から不可侵のものとして保障する。

Rikkenshugikouzou

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