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2015年5月 7日 (木)

素人が芦部「憲法」を読んでみた(2) 立憲主義について考える

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Mokuji_4
目次

第一部 総論 > 第一章 憲法と立憲主義

じっくり読むはずが、駆け足になってしまった。この教科書の最初の十数ページで憲法とは何か、についての大事なこと(立憲主義)が書かれている。これは憲法改正の動きが強まっている中でよく考えるべきことだ。そこで私なりの考察をしてみる。素人考察なので、公平とはいかないが。

伊藤博文も立憲主義を理解していたようだ

「そもそも、憲法を創設するの精神は、第一君権を制限し、第二臣民の権利を保護するにあり。ゆえに、もし憲法において臣民の権利を列記せず、ただ責任のみを記載せば、憲法を設くるの必要なし」

 

人は間違える、人はものごとを善意で行うとは限らない

まず、立憲主義の考え方の元にあるのは、人間は間違える生き物であり、また、善意とは限らず悪意も抱く生き物である、という自覚があると思う。

国民も国家もそうである。両方とも暴走する可能性がある。ただし、権力を持つものが暴走した場合の被害は桁違いに大きい。だから、成文化して制限することが必要となってくる。これは、公権力を持つ者にとっても長い目で見れば立憲主義は必要なのだ。また、それだけの懐の深さが要求される。

「私は絶対に正しい。間違えることなどない」と言う人は政治家になる資格はない。

国家の「暴力」独占

まず、立憲主義の大事さとして、国家の中で「暴力」を最も独占しているのが国家権力そのものである、ということがあげられる。国家権力は「力」なのである。

というか、「力」がなければ統治などできないのだから、それを持つのは必然だ。

従って、立憲主義が外れてしまうと、国家が国民に牙をむいたとき、国民には抗うすべがない。立憲主義の外れた憲法を受け入れることは、国民の自殺行為である。思想や見解の相違で片付けられるものではない。

本来、国家権力は国民が委託したものなのだが、為政者がそれを自分のものとして恣意的に利用すると国民の死活問題となる。

権力を縛るものはすべて「立憲主義」か?

立憲主義は権力を縛るもの、というと、権力を縛るものはすべて立憲主義か? という疑問がわいてくる。

よく分からないが、権力を縛るものをすべて「立憲主義」と言ってしまうと、この言葉が独り歩きしてしまうだけのような気がする。例えば権力の分立というのも、分立によって相互規制をするわけだから、ある意味権力を縛るもの、とも言える。しかし、立憲主義でなくとも分権はあり得る、と考えることもできる。

取りあえず、「立憲主義」という言葉は、「憲法の最も主要な目的は権力を縛って国民の自由・人権を守るもの」というような文脈のみに使った方が良さそうだ。(もちろん、憲法は国家の統治の仕組みを定めるなどの大事な目的もあるが、メインの目的ではない、ということ。)

民主主義との関係

国民が民主主義を行うためには、国家権力からの自由や人権侵害があってはならない。従って、民主主義のためには立憲主義が必要である。立憲主義が外されてしまえば民主主義は不可能となる。

逆に、立憲主義が機能するためには、国民が積極的に政治に参加することが必要なので、立憲主義の成立のためには民主主義は必要である。国民が国家や政治などに無関心でいると、立憲主義も機能が難しくなる。

こう考えていくと、立憲主義と民主主義は緊密な関係であると考えざるを得ない。

多数決との関係

民主主義、イコール多数決、と思っている人々がいるが、これらは全く異なる話である。多数決というのは、ものごとを決めるための方法のひとつに過ぎない。
民主主義ではそれが不可欠の道具となっているだけで、非民主的な国家でも多数決は使われている。

重要なのは、多数決で決まったことがらが正しいとは限らない、ということだ。多数決による決定は常に正しい、というのは迷信である。たとえば、国会議員はやはり権力を持つ人物たちなので、その多数決が国民にとってよいものかどうかは保障されない。

国会で法律を通すとき、大多数の賛成があったとしても、それが違憲のものならば訴えられたとき「少数者」の裁判官が違憲判決を下すことができる。

立憲主義は、多数決の落とし穴を回避する仕掛けの一つとしてもとらえられる。

憲法の擁護義務の行方

憲法がもし「法律の親玉」ならば、当然、憲法を守る義務があるのは国民全体となる。しかし、憲法は法律ではない。

憲法は、国民から国家への命令、と考えられるので、一般国民は原則として憲法を守る義務というのはない(まあ、納税の義務などもある(「それは憲法に書かなくて良い」という人も多い。厳密には、何故憲法に国民の義務が書いてあるかの本当の意味は、私には分からない)が、全体として)。

実際、現行憲法では

第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

となっていて、擁護義務を負うのは、大雑把に言って公権力を持つ者とされる。一般国民は憲法の擁護義務から外されている。

国民が憲法を守るのではなく、憲法が国民を守っているのだ。

憲法が立憲主義に則っているかどうかは、条文が全体として、国民から国家へという視線の文章になっているかどうかでも見分けられる。

立憲主義を外すのは憲法で許されているか?

憲法は改正が許されている。そこで、立憲主義を外す改正が許されるかどうか?

憲法の改正手続きに従えばどんな改正でもよい、とする無限界説を唱える専門家もいると聞いているので、それらの方々の意見に従えば、可能だ、ということにもなる。

ただ、そもそも憲法の核心の目的が、公権力を制限して国民の自由・人権を守ること、なのだから、立憲主義を外すというのは、実質上、近代憲法ではなくなってしまう、ということになる。憲法でなくなってしまうのを改正と言っていいのだろうか?

また、現行憲法の前文では

これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

とある。

この文章は、現行憲法の原則を損なうような改正は、憲法改正手続きによっても認められない、と読むのが自然だろう。排除するものの中に憲法も含まれるのだから。立憲主義は憲法の目的の核心なのだから、これを外す改憲は違憲だと見なすべきだろう。

三権分立との関係

論理的に考えれば、立憲主義はそれだけでは機能しないことが分かる。権力の分立がきちんとできていて、はじめて機能する。

もし、国会で不当な人権侵害をする法律が通って、それで、誰かが犠牲になり裁判所に訴えたとき、司法が独立していてはじめて「それは違憲だ」とできる。

世界への責任

第二次世界大戦の悲劇によって、人権や立憲主義も進化した。立憲主義は国家が暴走するのを防ごうとする仕組みの一つであって、暴走を許したら、世界に新たな悲劇を呼ぶ可能性もある。これは、一国の自由だ、と言うわけにもいかないのではなかろうか?

世界への責任という意味でも、国家の暴走を防ぐ仕組みの立憲主義はきちんと守る必要があると思う。

考え付いたところは、今のところこのぐらいだが、もし、将来にまた別のことを思いついたら、またその考察を書くかもしれない。

この記事は 芦部信喜他「憲法」(第五版)を素人が読んだ考察について記しています。

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