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2017年6月18日 (日)

立憲主義という概念の確認

立憲主義という言葉が独り歩きしている気がするので、素人ながらこの言葉の意味を確認したい。これは「憲法は何のためにあるか?」「何故憲法が必要か?」ということに繋がる。

言葉には意味があるが、普通ただひとつの意味とは限らない。「憲法」という言葉にも状況によって違った意味に使われ得る。

  1. 形式的意味: 「憲法」と名付けられた成文の法典(憲法典)。この意味で言う場合は内容は問わない。
  2. 実質的意味: ある特定の内容を持った法典を「憲法」という場合。
    1. 固有の意味: 国家の統治の基本を定めた法のこと。どんな国にもある。
    2. 立憲的な意味: 自由主義に基づいて定められた国家の基礎法。「近代的意味の憲法」とも呼ばれる。1と異なり政治権力の組織化よりも、(専断的な)権力を制限して人権を保障することを目的とする。

「憲法」という言葉でもっともすぐれた特徴は立憲的意味にある。以後は立憲的意味の憲法について確認する。

まず、思想として「すべて個人は互いに平等な存在であり、生まれながらに自然権(人間ならば当然持っている権利、のような意味合いもある)を持つ。その核心は人間の人格不可侵の原則・・・個人の尊厳・・・である。

従って全ての価値、権威の源は個人の尊厳である、ということになる。「憲法の中で最も重要な条文をひとつだけあげよ」との問いには「憲法13条」となるのはここに由来する。

憲法は(様々な目的があるが、最大の目的は)国民の人権を守るため国家権力を制限するものとして存在する。そして憲法を制定する主体は国民ということになる。

法律(法律に準ずるものも含む)が国家(公権力)が国民を制限する(国民に命令する)ものと対比される。

Photo

日本国憲法前文にも

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、

とある。公権力には正当性がなければならない。上の原理により個人の尊厳がその源であり、国政を行うのは国民から選ばれた代表者であるから、それは国民へ奉仕するための権威でなければならない。それを実定法としたものが憲法である。

また上の原理により国民主権が定まる。

また、憲法はこの理由により最高法規となる。

最高法規としての憲法の本質は、むしろ、憲法が実質的に法律と異るという点に求めなければならない。つまり、憲法が最高法規であるのは、その内容が、人間の権利・自由をあらゆる国家権力から不可侵のものとして保障する規範を中心として構成されているからである。

芦部信喜他「憲法」(第五版)p.12。

憲法が硬性(改正しにくい)であること(96条)は最高法規であること(98条)と相補的な関係にあるからこれらは形式的な最高法規性を宣言している。そして、「最高法規」の部の先頭にある97条は人権を永久に保障するが、それはこの憲法の最高法規性の実質的根拠を示している。
前文の最初が「日本国民は」で始まっており、99条で憲法尊重擁護の義務は公権力である旨書かれているので、憲法の差出人は国民であり、名宛先は公権力である、という「国民→公権力」の形式が明言されている。

形式的ではなく、この実質的根拠を考えるとき、憲法は条文をただ並べたものではなく、条文の重さも同じと考えることは出来ず、全体としてひとつの有機的な価値体系であることになる。

考察

何故、このような立憲的な憲法が必要なのだろうか?

1つは、人間というものは権力を持てば持つほどより権力が欲しくなる生き物であること。例えば「人が酒を飲む」が容易にエスカレートして「酒が人を飲む」よとなるように、人間の欲望にはきりがない。もともと政治家は野心家でなければ務まらないしその中で権力闘争で勝ち抜けばさらに権力を求める傾向は高くなる。従って、本来国民から信託された筈の権威を自分の野心のために使う欲望は非常に強まる。正当性を欠く暴走は容易に起こる。

その歯止めは絶対に必要である。

2つ目は、近代以後の国家権力の強大さがあるだろう。西洋諸国に対抗するため明治維新から日本は中央集権化(廃藩置県など)を進めた。西南戦争は勝負は最初から決まっていた。この強大さは1つ目で述べた為政者の権力への渇望をさらに激しくする。それにもまして、国家は暴力を独占していることになる。

もし、国家権力が暴走して国民に牙を向いた場合、国民はなすすべがない。戦力の桁が違いすぎる。警察が国民に牙を向いただけでもどれほど恐ろしいことになるか。

従って、国民は常に国家権力を監視しなければならない宿命を負う。さもなければ命も危ないからだ。

日本国憲法12条

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

この「不断の努力」は伊達ではない。自由及び権利を国民は油断せず自分たちで守らなければならない。それは国家権力から自分たちを守らなければならないからだ。

以上のことを考えると、立憲主義は国家権力・政権に対して猜疑の心で臨む(性悪説の立場で臨む)必要があるということだろう。民主主義国では、友人、恋人、家族には信頼しても、国家権力を無条件で信頼など決してしてはならない、ということだ。

注意: 権力の分立がしっかりしていなかったり、為政者が法を軽んじている場合は立憲主義も絵に描いた餅でなかなか機能しない。

追記: マッカーサー草案の押し付けについて。1949年2.13.でマッカーサーは「草案の憲法の原理」を変えることを許さず、「政府が何もしなければ直接国民に問う」としたため、日本政府内などで、これは非自主的な「押し付け憲法」であり「全面改定すべき」との意見(押し付け憲法論)が多くなった。確かにこの憲法の原理は政府にとってはこの上もなく屈辱的なものであろう(特に、案を一蹴された松本国務大臣の屈辱は想像を絶するだろう)。学問的には「押し付けの要素があったとしても、それが全面改定する理由になるか?」など評価されていない模様だが、妄執は続いていたと思われる。現行憲法の原理を変え(必然的に憲法の改正限界を越える)、憲法を全面改定する改正案が出たからである。しかし、これは合理的な理由によって出たものとは言いがたいので内容も不合理となりこの改憲は危険である。マッカーサーが政府を見切ってすぐに国民に問うていたらかなり状況は変わっていたと私は考える。(芦部他「憲法」(第五版)p.26.(押し付け憲法論に関する注釈)を参考にした。)

立憲主義については、まだまだ考えなければならないことがあるが、素人の備忘として。情報は主に、芦部他「憲法」第五版から得ている。

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