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カテゴリー「憲法」の記事

2017年9月 1日 (金)

ナチスの手口が使われているのではないか?という「陰謀論的」思考は必要だ。

どうも、日本人の多くはナチスの脅威について過小評価しすぎるようだ。

アソウ副総理は「ナチスの手口に学んだらどうか」と失言し、学校の教材にヒトラーの「我が闘争」を用いることが可能とか、堀江氏がTVでヒトラーによく似た人物の描かれているTシャツを着たり。最近ではまた麻生副総理がナチスを引き合いに出して「いくら動機が正しくても、結果が悪ければ駄目」とか発言した。

世界、特に自由主義陣営にとってはこれは看過できない問題だろう。

第2時世界大戦直後から、#基本的人権 や #立憲主義 #国民主権 などの概念が急速に進化した。以前からこれらの概念は発達していたのだが、ナチズムやファシズムの台頭のために考えなおさざるを得なくなったのだ。

アドルフ・ヒトラーは、当時世界で最も民主的と言われたワイマール憲法下で(少なくとも見かけ上は)「合法的に」独裁者になった。

つまり、「形式的な合法性」では民主主義国を維持できないことが証明されてしまったのだ。これは世界を震撼させるに十分だ。

近代的な基本的人権はロックやルソーなどの思想を元に行われた18世紀末の市民革命からだろう。そこでは、自然権としての考えが色濃くあった。

しかし、19世紀には自然権的な思想は衰退していった。ヨーロッパ諸国にも人権保障を含む憲法が普及したがどちらかというと人権より「国民権」に近いものだった(外見的人権)。これは

  1. 合理主義思想や社会主義思想が発達し、自然権思想にとってかわったこと、
  2. 議会制が成立して議会(法律)による権利の保障という考え方が有力になったこと、
  3. 法学の対象を実定法に限定して、自然法的なものや政治的なものを排除して実定法の論理的解明を狙いとする法実証主義が広まったこと

などによる。

ところがヒトラーはそれでは不十分であることを証明してしまったため、初期の自然権的な人権思想が見直されることになる。

基本的人権は「人間が人間であることに基づいて論理必然的に享有する権利」という見方が一般的になった。

また、従来の「法律による権利の保障」が「人権は法律によっても侵害されてはならない」という「法律からの保障」が強調されるようになった。

これは立憲主義の考え方そのものも大きく変わった事を意味する。

さらに、基本的人権の保障は、国家の国内法による保障だけでは不十分と、人権を国際的に保障する動きが活発になった。

(情報源:芦部「憲法」(第五版)pp.76−79)

ナチスの出現は世界全体の構造まで変化させてしまったのである。

2度とナチスの悲劇を繰り返してはならない、というのが世界の常識である。

これを理解しないのは犯罪的と見なされるだろう。

実際、現行日本国憲法にも「ナチスの悲劇を繰り返さない」ための智慧が盛り込まれている

国民主権の原理、基本的人権の保障と憲法がこれを根拠にしていること、立憲主義の明確化(国民から公権力への命令の形が含まれている)。

特に注意すべきは現行憲法の13条だろう。

すべて国民は、個人として尊重される。

で始まるこの条文は「現行憲法の中でもっとも重要な条文ひとつだけ取り上げるとしたらどれか?」という答えは第13条である、という程重要な条文である。(法の「形式的な意味」だけでは独裁者の出現は防げないので実質的意味も考えなければならない。この実質的意味を考えるとこの条文が最も重いことになる。)

これは個人の尊厳の原理とも言われる。(個人主義とも言われるが、これは日本では利己主義と混同されやすい。まったく違うものなのに嘆かわしい。)

これは新しい人権などの根拠にもなる大事なものだが、ナチズムに対抗する意味もある。個人の尊厳の対極は「全体主義」だからだ。全体主義に対抗する機能も持ち合わせている条文だと言える。

従って、日本国の国民が基本的人権、国民主権、立憲主義、憲法の仕組みなどを十分理解しているならば、第2のヒトラーの出現など怖れるに足らない。そんなものは排除する仕組みがあるのだから。

またナチスの悲劇の恐ろしさを国民が理解していれば、「ナチスの手口に学んだら」などと発言する政治家は一瞬で政治生命を絶たれる筈なので、そんな気は起こさない筈だ。

とはいえ、そのような発言をする政治家が現役でいられる国となると話は違ってくる

現在、自民党憲法改正草案(これが改憲案としてそのままならないにしても、この考え方で改憲案が出るだろう)では、最高法規の一番最初にあって人権保障および最高法規性の実質的根拠となる第97条も削られている

憲法の基本的人権保障の後退は、封印できた筈の第2のヒトラーの出現の可能性が出てくるということだ。

さらに、第13条の「個人として尊重」が「人として尊重」に変わっている!

indivisualとpersonでは大きな違いがある。この違いだけで憲法の性格が全体主義的になってしまう。さらに幸福追求権も狭まるおそれが強い。

そして、前文の「日本国民は」が「日本国は」に書き換えられ、草案102条によって国民に憲法尊守義務が課せられる、ということは立憲主義が破壊されるということだ。(Q&Aには立憲主義を否定するものではない、と書いてあるが、この条文があるだけで立憲主義は機能しなくなる)。

他にも、ナチスの悲劇を繰り返さない仕組みがほとんど全部破壊されている

この草案は公開されている。それなのに国民は無関心である。

そうなると、本当にナチスの手口は実行可能である。あまりに異常な出来事だ。

実際に実行されているか?という絶対的な証拠はない。しかし、こういう場合は最悪を想定するべきである。実際にはどうであろうとも、ナチスの手口は実行されている最中である、という「前提」で物事を考えることはこの異常事態では大事になってくる。

日本がナチスの悲劇を繰り返したりしたら、世界は日本を許さないだろうから。

2017年8月21日 (月)

自民党憲法改正草案の問題点 −− これは革命案であること

自民党憲法改正草案は自民党の憲法に関する考え方が現れている。憲法改正をするというときも、まったく同じ案ではないにしろ、考え方は変わらないだろう。

この草案は、憲法を全面的に書き換える形となっている。

憲法は最高法規であるので、日本のすべての法律、システム、裁判のやり方、警察の性質、施設のあり方、社会の仕組み、学校のあり方、すべての制度、その他日本のありとあらゆるものごとに大きな影響を及ぼす。つまり、日本という国をまったく別の国にしてしまうということだ。

つまり、これは革命案である。

これが問題だというなら対案を出せば良い、という声がよくきかれるが、革命をやらないという対案は何故出せないのか?

安全保障との関係

憲法改正の必要性に関して、国際環境の変化があげられている。

つまり安全保障上の問題だというのだ。

しかし、日本全体を変えてしまう案というものを実践することは、すべての制度などなどを憲法に適合するように変えなければならないのだから、大変な混乱が予想される。
どの程度の混乱になるかはまったく私には分からないが、治安も悪くなるだろうし、いつまで続くか分からない。分からないが最悪を想定すれば無政府状態になることも考えなければいけない。

その変化の大混乱の最中は日本は無防備状態になるおそれが強い。

何しろ、外敵がいなくとも日本が内部崩壊する可能性さえあるのだから。

大日本帝国憲法が現行の日本国憲法に変わったときは敗戦のときだ。このときは米国の進駐軍がある程度治安維持を行った。あまりよい歴史上の出来事ではなかったかもしれないが、無政府状態よりはまだ占領状態の方がましなので仕方がない。

今回の憲法改正での混乱で治安などの維持はうまく行えるのだろうか?

つまり、安全保障の問題で憲法全面改定をする、というのはあまりに危険で逆効果だということだ。

安全保障上の問題があるならば、憲法改正などできればやらない方がよいし、どうしても必要ならば必要最小限の改正(具体的には9条のみの改正だろう)にとどめて、現在の危機を乗り切るのが常識的なやり方だ。

そもそも、安全保障の問題があろうがなかろうが、日本国を全面的に変えてしまうような革命を何故行わなければならないのだろうか?

2017年6月28日 (水)

もし、俺の親父のようなタイプの人間が権力持ったら・・・

私は精神的虐待を受けて育った。

父の性質は次のようなものだった。

  1. 自分の考えと異る考えの人間は「悪人」か「駄目な人」であって、絶対に認めなかった。
  2. 何か問題があると、それは必ず他人が悪い。それは一貫していた。朝から晩まで人の悪口を言い続けた。TVに向かっても罵倒し続けた。母にも「馬鹿女〜、馬鹿女〜、馬鹿女ったら馬鹿女〜」など毎日罵倒した。電気料金が思ってたより高かった、というときがあったが、「これは電力会社が不正をしている」と信じ、何度も電力会社にクレームを付け、会社が検査の機械を取り付けて「やはり漏電などはありませんよ」と説明しても「あんたらが悪さをしてることは分かっている。料金を返せ」と怒鳴るだけだった。
  3. 何かあっても「責任を取る」ということは絶対しなかった。
  4. 人に謝ることは絶対にできなかった。自分の非は絶対に認められなかった。
  5. 子供には絶対服従を暗黙のうちに要求したが、言うことがころころ変わったので服従不可能だった。高校ぐらいまでは洗脳されていたので、親には絶対服従しなければならないと思い込んでいたが、不可能だったので自分には価値がないという信念が刷り込まれていた。
  6. 「男の約束」というのをやることもあるが、それは相手が絶対に約束を破らないという意味だった。ある人と「男の約束」をして握手までかわして、30分後に破ったところを見たことがある。
  7. それでいて、自分は正義の人間だと信じていた。

親父の生い立ちが少しずつわかってくると、親父も祖父に虐待を受けていたことが分かった。(母に母の問題もあったがややこしいのでここでは書けない。)

中学生の頃だろうか。親父は自転車でプールに俺を連れて行く習慣があった。兄弟もいたのだが、他の兄弟はうまく距離をとっていたので、常に俺と親父二人だった。辛かった。途中にかなり急な長い坂道があった。とはいえバスも通る道ではあるが。行きはまだ登りなので、ひたすら頑張って登るのだが、帰りの下りが問題だった。父は自転車でノーブレーキで下まで滑走するのが快感で大好きだった。そして俺にもそれをやるように無言で強制した。これは怖かったのでどうしても父より遅れた。自動車道である、さらに坂道の下は二股に分かれていた。つまり、自動車がわんさか通る道に坂の上から自転車が2台時間差でノーブレーキで斜めに突っ切ることになる。下手したら事故を起こして死ぬかもしれないし、もっと悪いことに他人を死なせたかもしれない。幸運なことにそうはならなかったが。
ある日、それをやっていたら白バイが付いてきて俺に注意した。父は既に先に降りていたので白バイは気づかなかったらしい。親父は戻ってきて俺を怒鳴りつけた。

まあ、手のひら返しは日常だ。

家は地獄だった。しかし、それでも被害が家庭内ですんだのは、父に「権力」がなかったからだ。もし、父に権力があったら、特に総理とかになったら大変なことになる。

この予想が外れればよいが。

2017年6月27日 (火)

「権利」と「義務」は取引か?−自民党改憲草案12条

自民党憲法改正草案 の12条

第12条(国民の責務)
 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない

は分かりにくい。

前半は現行12条と同じように見えるが、「(国民の責務)」と付け足され、全体的に国→国民という非立憲的な構造の文脈では意味が変わる可能性もあり得る。例えば、国民の自由や権利は国民が頑張って自力で守るもので国が保障するものではないのだ、という国の義務否定としても読めないことはない。とはいえ、それは脇に置いておく。

また、自民党改正草案では、現行の「公共の福祉」という言葉が「公益及び公の秩序」という言葉に置き換えられている。

自民党憲法改正草案Q&A では「公共の福祉」が分かりにくいから、と説明しているが「公共及び公の秩序」という言葉で分かりやすくなるわけではない。

ただ、Q&Aでは

憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにした

とある。

Q&Aは法的拘束力はおそらくないのだろうが、改正草案の作者の考え方を表しているとみることはできる。つまり、人権の制限には人権の衝突以外の原理で行うこともあり得る、と作者は考えているのだろう。これは、大日本帝國憲法の法律の留保の復活に繋がるおそれがある。しかし、この人権の衝突以外の原理とは何だ?その根拠・正当性はどこから来るのか?

これも重大な問題だが、ここまでにしておく。

ここで問題にしたいのは

自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、

の部分だ。

日本語が分かりにくいのだが、おそらく「自由」には「責任」が伴い、「権利」には「義務」が伴う、これは当然のことである、国民はこのことを自覚しなければならない、ということだろう。102条の国民の憲法尊守義務から、自覚するのは国民なのだろう。

ところで、そもそも「権利」には「義務」が伴う、というのは本当だろうか

例えば、AさんがBさんに(無利子で)10万円貸したとする。このときAさんは「Bさんから10万円返してもらう権利」が発生し、Bさんには「Aさんに10万円返す義務」が発生する。法学では債権債務と言うらしいが、常識で考えても大体分かる。

確かに、権利と義務が同時発生しているように見えるが、その「主体」が異る。

AさんはBさんからお金を返してもらう権利があるだけで義務はない。何故、お金を貸したことで義務が発生するのか?

同じ主体が権利と義務を「必ず」伴う、という話などどこにもない。

更に、基本的人権は「人であること」から出てくる権利であって、それに伴う義務はない(人権の固有性)。

同じ主体が権利と義務が伴って発生する場合といえば、モノを買うときがある。だから伴う「場合」もある。これは取引だ。

AさんがB商店から和菓子を(税は一旦無視する)千円で買ったとする。すると、Aさんは千円を払う義務と和菓子を渡してもらう権利が出る。

しかし、よく考えると、これは債権債務の関係が2組発生していることが分かる。「Aさんが千円払う義務」と「B商店が千円もらう権利」、および「B商店がAさんに和菓子を渡す義務」と「Aさんが和菓子を受け取る権利」だ。権利と義務2つづつ、合計4つ発生している。

取引の関係で、さらに問題なのは、取引が公正に行われるか?ということだ。一般に、取引の両者の力関係が同等ならば公正になる可能性は高いが、力関係に大きな差がある場合は力のある方が得をするような不当な取引になりやすい。公正さを保つためには、不公正な取引をさせない、更なる力が必要だ(法律、裁判所、警察などなど)。

しかし、国対国民で公正な取引は保障されるだろうか?

結局、「権利」には「義務」が伴う、という話には以下のような問題があることが分かる。

  1. 基本的人権の固有性を否定、すなわち基本的人権の否定につながるおそれ。

  2. 仮に、国民の権利が義務の見返りの取引関係だったとしても、その取引の公正さを担保するものは何もない。

これでは、国が一方的に国民から搾取する構図になるおそれが非常に高いと思う。

自由権、参政権、社会権−素人の備忘録

基本的人権は大きく3つに分類できる。

  1. 自由権---「国家からの自由」。国家が個人の領域に対して権力をカサに来て介入して個人の自由な意思決定と活動を侵害することはない、ということを保障する人権。人権保障の確立期から人権体系の中心をなしている重要な権利である。
    • 精神的自由権
      • 内面的な精神活動の権利(思想の自由、信仰の自由、学問研究の自由等)
      • 外面的な精神活動の権利(宗教的行為の自由、研究発表の自由、表現の自由等)
    • 経済的自由権
    • 人身(身体)の自由
    もちろん、これは「国家が必要ない」という意味ではない。
  2. 参政権---「国家への自由」。国民が国政に参加する権利。
  3. 社会権---「国家による自由」。社会的・経済的弱者が「人間に値する生活」を営むように、国家の積極的な配慮を求めることのできる20世紀以後に認められた権利。
    考察:正当な努力をしても不当な貧困等があれば、国家はそれを救済する努力の義務があることになる。現代民主主義国は「自己責任の国」ではない。働きたくても働けないなどの場合は国家が救済努力することを義務付ける。もちろん国民が弱者を叩いて憂さ晴らしをするような民度の国ではうまく機能しない。
    これは憲法の規定を直接の根拠として権利の実現を裁判所に請求することのできる具体的な権利ではない。具体的権利となるためには立法による裏付けが必要。(私はそのような立法を国民が要求する性格があるということ、と解釈している。)

自由は、原則としては他人の人権を侵害しない限り何をやってもよいと解するべきだろう。特に行動や表現に表さない段階では内心の自由は保証されるべきだ。(自由権はそのような自由を国家権力(やそれに準じる大きな権力)から侵害されない権利。)自由、自由、と連呼するが、これは私欲によって何でもかんでもやってよい、という意味の自由とはいえないだろう。ただ、自由を甘え・自分勝手の意味に捉える傾向がある。国家権力に対抗する自由という意味がすり替えられているのかもしれない。自由が大事なのは、むしろ、個人個人の才能を開花させる(学問でもスポーツでも芸術でも、どんな分野でも)ことによる社会全体の可能性を最大限に高め、それによって福祉も享有できるようになること。また、そもそも人間は健全な人間に成長するためには、個人の人格の尊重・権利・自由の保障が必要だということ。また、人間は間違いを侵すものだから、間違える自由も認められなければならない(その結果犯罪になるのは好ましくないので、制限は必要だが)、などの意味があるだろう。

もちろん、他人の人権を害する行動は禁じられなければならないので、権利・自由と言っても無制限に認められるわけではない。ただ、明治憲法下で法律の留保によって根拠なく人権を侵害される歴史があったため、公共の福祉という言葉の意味はできる限り人権のぶつかり合い以外の原理を使わないように吟味されている模様である。そもそも、国家の権威の源は国民に由来するのであるから、基本的人権を制限する原理としては他人の人権を侵害する場合しかあり得ない。それ以外の原理で制限するとなるとその根拠の由来がないからである。

政府によるBPO介入などは、精神的自由権の侵害と考えられる。二重の基準論では違憲審査のとき精神的自由権の審査は経済的自由権の審査より厳格に行われる原則がある。これは精神的自由権は非常に大事ということなので、その侵害は重大な問題と考える。

人権の相対性

基本的人権を分類する、というとき、杓子定規に(あるいはドグマ的に、絶対的なものとして)考えてはならない。例えばある権利が自由権、参政権、社会権のどれかにきっちり収まるなどと考えてはならない。

知る権利」は、情報を受け取ることが妨げられない、という自由権的な側面も持つが、情報の公開を請求するという社会権、国務請求権という側面ももつ。

教育を受ける権利生存権は社会権と見なされるが、同時に公権力によって不当に制限されてはならない、という自由権的な性格ももつ。

自由権と社会権との関係

自由権は国家が余計な干渉をするな、という思想・性質をもつが、社会権は国家に積極的に関わらせる思想・性質をもつ。このふたつは質が異る。

あまり、社会権の思想を重大視しすぎると、人権の分類が相対的でもあるし、自由権の領域にまで国家が介入するおそれがある。従って、現代においても「国家からの自由」が根本とすべきである。

考察:

自由権と社会権は共立可能ではあるが、ぶつかることも多いと思う。性質が全く異るのだから。気をつけなければならないのは、社会権が出たことで行政の役割が大きくなった、ということは行政府の権力も増大したということだ。もし、自由権と社会権がぶつかる場合は原則として自由権を優先しなければならない、ということになると思う(もちろん、原則論だから、現実の個々の事例では専門家が念入りに吟味し、憲法や法律の具体的意味を積み重ねる必要があるだろう。そこは素人の私では分からない)。
行政府の権力が相対的に強くなっている、ということは、国民はより賢くなり、自由権の価値を見失ってはならない。

芦部他「憲法」(第五版)pp.83-85 を主な情報源としている。

この教科書では、日本国憲法で保証されている人権は、

  1. 包括的基本権(13条)
  2. 法の下の平等(14条)
  3. 自由権
  4. 受益権(国務請求権)
  5. 参政権
  6. 社会権

としている。

2017年6月18日 (日)

日本国憲法、自民党改憲案、中国憲法、北朝鮮憲法等の前文を比べてみた

現行日本国憲法と自民党憲法改正草案を比較する参考として、他国のもいくつか含めて前文を比較してみた。

現行の日本国憲法前文 と自民党憲法改正草案 の前文を比べると、まず、現行の「日本国民は」が「日本国は」に変わっている。

近代の民主主義国の憲法は国民から国家権力への命令書(契約書)であることが本質なので、ここで既に自民党改憲案は憲法ではない、と言える。この本質は立憲主義とも言Photo_2 われるが、これは公権力が暴走しないように縛らなければならないから絶対に必要である。さもなければいつかは独裁になる。自民党改憲案も後半では国民が主語になっているが、前半で国の方が上位という概念が出来ている。

参考にアメリカ合衆国憲法とドイツ基本法(実質的な憲法)の前文を見ると、国民が主語になっている。立憲主義がよく現れている例としてドイツ基本法の第1条を見れば、憲法を守る(憲法に従う)義務は国家の方にあり、憲法は国家権力を拘束するものであることが明記されている。(ドイツ基本法のいわゆる「戦う民主主義」では「ドイツ国民に憲法順守義務を課している」という言い方がされることがあるが、立憲主義を強調しているこの基本法の本質を見逃す危険があるので不適当な言葉だと思う。)

権威には「根拠」「正当性」がないと、暴力組織にしかならない。実際これは長続きしにくい。

自由主義陣営の憲法は個人の尊厳にその根拠を置いているので、「国民」→「国家権力」という形式になる。

一方、中国憲法や北朝鮮の憲法(近代憲法、民主主義憲法とは言えないが)の前文を見てみる。どちらも国が主語であり、歴史に根拠を置いている。中国憲法序文は国の権威の根拠として革命を持ってきている。万世一系の天皇に根拠を置いていた大日本帝国憲法とは対極的である。中国憲法前文の厳密さは特別である。歴史を根拠にするのは権威の根拠としては少々問題があると思うが書いてあるだけ良い。それに比べたら自民党の改憲案は「長い歴史」「天皇を戴く」だけで弱すぎる。つまり自民党改憲案には国家の権威の根拠が書かれていないとしか言えない。
さらに、序文では出てこないが、内容は内閣、特に内閣総理大臣に権力が集中している。何故総理にそのような権力があるのか、その根拠・正当性が書かれていない。これでは論理的に破綻する。

中国憲法、北朝鮮憲法、自民党改憲案は、国→民、の形式なので民主主義国は不可能である(国が暴走したときに止める術がない)。それでも正当性が書いてあれば保つ。書いてないのは危険である。

従って、自民党改憲案は中国憲法や北朝鮮憲法より劣っているということである。

中国憲法前文の最後には人民も含めてこの憲法に従わなければならない旨が書いてあるので立憲主義を明確に否定していると言える。自民党改憲案も前文だけでもその気配があるが草案102条で立憲主義を明白に否定している(自民党憲法改正草案Q&Aでは、立憲主義を否定していないと書かれているが、草案102条があるだけで否定される)

現行日本国憲法 前文

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との 協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに 主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の 代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する 一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国 民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努 めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する ことを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

アメリカ合衆国憲法前文

われら合衆国の国民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に 備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって、ここに アメリカ合衆国のためにこの憲法を制定し、確定する。

ドイツ基本法前文

神と人間に対するみずからの弁明責任を自覚し、

統合されたヨーロッパの中で平等の権利を有する一員として、世界平和に貢献しようとする決意に満ちて、

ドイツ国民は、その憲法制定権力により、この基本法を制定した。

バーデン=ヴュルテンベルク、バイエルン、ベルリン、ブランデンブルク、プレーメン、ハンブルク、ヘッセン、メクレンブルク=フォアポンメルン、ニーダー ザクセン、ノルトライン=ヴエストファーレン、ラインラント=プファルツ、ザールラント、ザクセン、ザクセン=アンハルト、シュレスヴィヒ=ホルシュタイ ンおよびテューリンゲンの諸ラントのドイツ人は、自由な自己決定によりドイツの統一と自由を達成した。

これにより、この基本法は全ドイツ国民に適用される。

ドイツ基本法 第1条和訳

第1条 [人間の尊厳、基本権による国家権力の拘束]

(1) 人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、および保護することは、すべての国家権力の義務である。

(2) ドイツ国民は、それゆえに、侵すことのできない、かつ譲り渡すことのできない人権を、世界のあらゆる人間社会、平和および正義の基礎として認める。

(3) 以下の基本権は、直接に妥当する法として、立法、執行権および司法を拘束する。

自民党憲法改正草案 前文

日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
 我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
 日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
 我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
 日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。

中華人民共和国憲法恋する中国 による和訳)

中国は、世界でも最も古い歴史を持つ国家の一つである。中国の諸民族人民は、輝かしい文化を共同で作り上げており、また、栄えある革命の伝統を持っている。
1840年以降、封建的な中国は、次第に半植民地・半封建的な国家に変化した。中国人民は、国家の独立、民族の解放並びに民主と自由のために、戦友の屍を乗り越えて突き進む勇敢な闘いを続けてきた。
20世紀に入って、中国には天地を覆すような偉大な歴史的変革が起こった。
1911年、孫中山先生の指導する辛亥革命は、封建帝制を廃止し、中華民国を創立した。しかし、帝国主義と封建主義に反対するという中国人民の歴史的任務は、まだ達成されなかった。
1949年、毛澤東主席を領袖とする中国共産党に導かれた中国の諸民族人民は、長期にわたる困難で曲折に富む武装闘争その他の形態の闘争を経て、ついに帝 国主義、封建主義及び官僚資本主義の支配を覆し、新民主主義革命の偉大な勝利を勝ち取り、中華人民共和国を樹立した。この時から、中国人民は、国家の権力 を掌握して、国家の主人公になった。
中華人民共和国の成立後、我が国の社会は新民主主義から社会主義への移行を一歩一歩実現していった。生産手段私有制の社会主義的改造が達成され、人が人を 搾取する制度は消滅して、社会主義制度が確立した。そして、労働者階級の指導する労農同盟を基礎とした人民民主主義独裁、すなわち、実質上のプロレタリ アート独裁は、強固になり、発展した。中国人民及び中国人民解放軍は、帝国主義と覇権主義の侵略、破壊及び武力挑発に打ち勝ち、国家の独立と安全を守り、 国防を強化した。経済建設では、大きな成果を収め、独立した、比較的整った社会主義の工業体系がほぼ出来上がり、農業生産も著しく高められた。教育、科 学、文化等の事業は、大きな発展を遂げ、社会主義思想の教育で中 国の新民主主義革命の勝利と社会主義事業の成果は、中国共産党が中国の各民族人民を指導し、マルクス・レーニン主義及び毛澤東思想の導きの下に、真理を堅 持し、誤りを是正し、多くの困難と危険に打ち勝って獲得したものである。我が国は、長期にわたり社会主義初級段階にある、国の根本的任務は、中国的特色を 有する社会主義という道に沿って、力を集中して社会主義現代化の建設をする事にある。中国の各民族人民は、引き続き中国共産党の指導の下に、マルクス・ レーニン主義、毛澤東思想、鄧小平理論及び"三つの代表"の重要思想に導かれて、人民民主独裁を堅持し、社会主義の道を堅持し、改革開放を堅持し、社会主 義の各種制度を絶えず完備し、社会主義市場経済を発展させ、社会主義的民主主義を発展させ、社会主義的法制度を健全化し、自力更正及び刻苦奮闘につとめ て、着実に工業、農業、国防及び科学技術の現代化を実現し、物質文明、政治文明および精神文明の調和のとれた発展を推進して、我が国を富強、民主的、か つ、文明的な社会主義国家として建設する。
我が国では、搾取階級は、階級としては既に消滅したが、なお一定の範囲で階級闘争が長期にわたり存在する。中国人民は、我が国の社会主義制度を敵視し、破壊する国内外の敵対勢力及び敵対分子と闘争しなければならない。
台湾は、中華人民共和国の神聖な領土の一部である。祖国統一の大業を成し遂げることは、台湾の同胞を含む全中国人民の神聖な責務である。
社会主義の建設という大きな仕事は、労働者、農民及び知識分子に依拠し、団結できるすべての勢力を団結しなければならない。長期の革命と建設の過程におい て、中国共産党の統率的指導のもとで、各民主党派と各人民団体が参加し、社会主義的勤労者、社会主義事業の建設者、社会主義を擁護する愛国者および祖国統 一を擁護する愛国者のすべてを含む、広範な愛国統一戦線が結成されたが、この統一戦線は引き続き強固になり発展して行くであろう。中国人民政治協商会議 は、広範な代表性を持つ統一戦線の組織として、これまで重要な歴史的役割を果たしてきたが、今後、国家の政治生活、社会生活及び対外的な友好活動におい て、また、社会主義的現代化の建設を進め、国家の統一と団結を守る闘いにおいて、更にその重要な作用を発揮するであろう。中国共産党指導の下における多党 協力及び政治協商制度は長期にわたり存在し、発展するであろう。
中華人民共和国は、全国の諸民族人民が共同で作り上げ、統一した多民族国家である。平等、団結及び相互援助の社会主義的民族関係は、すでに確立しており、 引き続き強化されるであろう。民族の団結を守る闘争の中では、大民族主義、主として大漢族主義に反対し、また、地方民族主義にも反対しなければならない。 国家は、全力を尽くして全国諸民族の共同の繁栄を促進させる。
中国の革命と建設の成果は世界人民の支持と切り離すことができない。中国の前途は、世界の前途と緊密につながっている。中国は、独立自主の対外政策を堅持 し、主権と領土保全の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵及び平和共存の5原則を堅持して、諸国家との外交関係及び経済・文化交流を発展させ る。また、帝国主義、覇権主義及び植民地主義に反対することを堅持し、世界諸国人民との団結を強化し、抑圧された民族及び発展途上国が民族の独立を勝ち取 り、守り、民族経済を発展させる正義の闘争を支持して、世界平和を確保し、人類の進歩を促進するために努力する。
この憲法は、中国の諸民族人民の奮闘の成果を法の形式で確認し、国家の基本となる制度及び任務を定めたものであり、最高の法的効力を持つ。全国の諸民族人 民並びにすべての国家機関、武装力、政党、社会団体、企業及び事業組織は、いずれもこの憲法を活動の根本準則とし、かつ、この憲法の尊厳を守り、この憲法 の実施を保障する責務を負わなければならない。

北朝鮮憲法 序文和訳

朝鮮民主主義人民共和国は、偉大な領袖金日成同志の思想と領導を具現したチュチェの社会主義祖国である。

 偉大な領袖金日成同志は、朝鮮民主主義人民共和国の創建者であり、社会主義朝鮮の始祖である。

  金日成同志は、永生不滅のチュチェ思想を創始し、その旗じるしのもとに抗日革命闘争を組織・領導して、栄えある革命伝統を築き、祖国光復の歴史的偉業を成 し遂げ、政治、経済、文化、軍事分野において自主独立国家建設の強固な土台を整えたうえで朝鮮民主主義人民共和国を創建した。

 金日成同志は、主体的な革命路線を示し、各段階の社会革命と建設事業を賢明に領導して、共和国を人民大衆中心の社会主義国家に、自主、自立、自衛の社会主義国家に強化・発展させた。

 金日成同志は、国家建設と国家活動の根本原則を明らかにし、最も優れた国家社会制度と政治方式、社会の管理体系と管理方法を確立し、社会主義祖国の富強・繁栄とチュチェ革命偉業の継承・完成のための確固たる土台を築いた。

 金日成伺志は、「以民為天」を座右の銘とし、常に人民とともにあって、人民のために生涯を捧げ、崇高な仁徳政治で人民を見守り導いて、全社会を1心団結した1つの大家庭に変えた。

  偉大な領袖金日成同志は、民族の太陽であり、祖国統一の救いの星である。金日成同志は、国の統一を民族至上の課題としてかかげ、その実現のためにあらゆる 労苦と心血をすべて捧げた。金日成同志は、共和国を祖国統一の強力な堡塁として固める1方、祖国統一の根本原則と方途を提示し、祖国統一運動を全民族的な 運動に発展させて、全民族の団結した力で祖国統一偉業を成就するための道を開いた。

  偉大な領袖金日成同志は、朝鮮民主主義人民共和国の対外政策の基本理念を明らかにし、それにもとづいて国の対外関係を拡大・発展させ、共和国の国際的権威 を高くとどろかせた。金日成同志は、世界政治の元老として、自主の新時代を開拓し、社会主義運動と非同盟運動の強化・発展のために、世界の平和と人民との 親善のために精力的に活動し、人類の自主偉業に不滅の貢献をした。

 金日成同志は、思想理論と領導芸術の天才であり、百戦百勝の鋼鉄の霊将であり、偉大な革命家、政治家であり、偉大な人間であった。

 金日成同志の偉大な思想と領導業績は、朝鮮革命の万年の財宝であり、朝鮮民主主義人民共和国の隆盛・発展のための基本保証である。

 朝鮮民主主義人民共和国と朝鮮人民は、朝鮮労働党の領導のもと偉大な領袖金日成同志を共和国の永遠の主席として高く戴き、金日成同志の思想と業績を擁護固守し、継承・発展させて、チュチェ革命偉業を最後まで完成していくであろう。

 朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法は、偉大な領袖、金日成同志の主体的な国家建設思想と国家建設業績を法化した金日成憲法である。

以上

 


 

立憲主義という概念の確認

立憲主義という言葉が独り歩きしている気がするので、素人ながらこの言葉の意味を確認したい。これは「憲法は何のためにあるか?」「何故憲法が必要か?」ということに繋がる。

言葉には意味があるが、普通ただひとつの意味とは限らない。「憲法」という言葉にも状況によって違った意味に使われ得る。

  1. 形式的意味: 「憲法」と名付けられた成文の法典(憲法典)。この意味で言う場合は内容は問わない。
  2. 実質的意味: ある特定の内容を持った法典を「憲法」という場合。
    1. 固有の意味: 国家の統治の基本を定めた法のこと。どんな国にもある。
    2. 立憲的な意味: 自由主義に基づいて定められた国家の基礎法。「近代的意味の憲法」とも呼ばれる。1と異なり政治権力の組織化よりも、(専断的な)権力を制限して人権を保障することを目的とする。

「憲法」という言葉でもっともすぐれた特徴は立憲的意味にある。以後は立憲的意味の憲法について確認する。

まず、思想として「すべて個人は互いに平等な存在であり、生まれながらに自然権(人間ならば当然持っている権利、のような意味合いもある)を持つ。その核心は人間の人格不可侵の原則・・・個人の尊厳・・・である。

従って全ての価値、権威の源は個人の尊厳である、ということになる。「憲法の中で最も重要な条文をひとつだけあげよ」との問いには「憲法13条」となるのはここに由来する。

憲法は(様々な目的があるが、最大の目的は)国民の人権を守るため国家権力を制限するものとして存在する。そして憲法を制定する主体は国民ということになる。

法律(法律に準ずるものも含む)が国家(公権力)が国民を制限する(国民に命令する)ものと対比される。

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日本国憲法前文にも

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、

とある。公権力には正当性がなければならない。上の原理により個人の尊厳がその源であり、国政を行うのは国民から選ばれた代表者であるから、それは国民へ奉仕するための権威でなければならない。それを実定法としたものが憲法である。

また上の原理により国民主権が定まる。

また、憲法はこの理由により最高法規となる。

最高法規としての憲法の本質は、むしろ、憲法が実質的に法律と異るという点に求めなければならない。つまり、憲法が最高法規であるのは、その内容が、人間の権利・自由をあらゆる国家権力から不可侵のものとして保障する規範を中心として構成されているからである。

芦部信喜他「憲法」(第五版)p.12。

憲法が硬性(改正しにくい)であること(96条)は最高法規であること(98条)と相補的な関係にあるからこれらは形式的な最高法規性を宣言している。そして、「最高法規」の部の先頭にある97条は人権を永久に保障するが、それはこの憲法の最高法規性の実質的根拠を示している。
前文の最初が「日本国民は」で始まっており、99条で憲法尊重擁護の義務は公権力である旨書かれているので、憲法の差出人は国民であり、名宛先は公権力である、という「国民→公権力」の形式が明言されている。

形式的ではなく、この実質的根拠を考えるとき、憲法は条文をただ並べたものではなく、条文の重さも同じと考えることは出来ず、全体としてひとつの有機的な価値体系であることになる。

考察

何故、このような立憲的な憲法が必要なのだろうか?

1つは、人間というものは権力を持てば持つほどより権力が欲しくなる生き物であること。例えば「人が酒を飲む」が容易にエスカレートして「酒が人を飲む」よとなるように、人間の欲望にはきりがない。もともと政治家は野心家でなければ務まらないしその中で権力闘争で勝ち抜けばさらに権力を求める傾向は高くなる。従って、本来国民から信託された筈の権威を自分の野心のために使う欲望は非常に強まる。正当性を欠く暴走は容易に起こる。

その歯止めは絶対に必要である。

2つ目は、近代以後の国家権力の強大さがあるだろう。西洋諸国に対抗するため明治維新から日本は中央集権化(廃藩置県など)を進めた。西南戦争は勝負は最初から決まっていた。この強大さは1つ目で述べた為政者の権力への渇望をさらに激しくする。それにもまして、国家は暴力を独占していることになる。

もし、国家権力が暴走して国民に牙を向いた場合、国民はなすすべがない。戦力の桁が違いすぎる。警察が国民に牙を向いただけでもどれほど恐ろしいことになるか。

従って、国民は常に国家権力を監視しなければならない宿命を負う。さもなければ命も危ないからだ。

日本国憲法12条

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

この「不断の努力」は伊達ではない。自由及び権利を国民は油断せず自分たちで保持しなければならない。

追記: 別の言い方をすれば。この12条、何かおかしい、と感じないだろうか? 最高法規である憲法で国民の自由、権利を保障しているというのに、何故わざわざ国民はそれを自分たちで守らなければならない、などと書いてあるのか? 国民間の自由、権利の侵害は法律、警察、裁判所などなどの制度で(完全とは言えないにしても)守るシステムがある(法人も含む)。それなら国民は自分たちの自由や権利を「何から」守らなければならないというのか? それは国家権力そのものからしかないのだ。それ以外からの自由、権利の侵害は守るシステムがあるのだから。油断していると「政府」に自由、権利を奪われてしまうから常にそれを守れと言っているのだ。

以上のことを考えると、立憲主義は国家権力・政権に対して猜疑の心で臨む(性悪説の立場で臨む)必要があるということだろう。民主主義国では、友人、恋人、家族には信頼しても、国家権力を無条件で信頼など決してしてはならない、ということだ。

注意: 権力の分立がしっかりしていなかったり、為政者が法を軽んじている場合は立憲主義も絵に描いた餅でなかなか機能しない。

追記: マッカーサー草案の押し付けについて。1949年2.13.でマッカーサーは「草案の憲法の原理」を変えることを許さず、「政府が何もしなければ直接国民に問う」としたため、日本政府内などで、これは非自主的な「押し付け憲法」であり「全面改定すべき」との意見(押し付け憲法論)が多くなった。確かにこの憲法の原理は政府にとってはこの上もなく屈辱的なものであろう(特に、案を一蹴された松本国務大臣の屈辱は想像を絶するだろう)。学問的には「押し付けの要素があったとしても、それが全面改定する理由になるか?」など評価されていない模様だが、妄執は続いていたと思われる。現行憲法の原理を変え(必然的に憲法の改正限界を越える)、憲法を全面改定する改正案が出たからである。しかし、これは合理的な理由によって出たものとは言いがたいので内容も不合理となりこの改憲は危険である。マッカーサーが政府を見切ってすぐに国民に問うていたらかなり状況は変わっていたと私は考える。(芦部他「憲法」(第五版)p.26.(押し付け憲法論に関する注釈)を参考にした。)

立憲主義については、まだまだ考えなければならないことがあるが、素人の備忘として。情報は主に、芦部他「憲法」第五版から得ている。